TEAM ZERO、千葉ホークス、森本文化風呂商会、Lakeshore Storm(USA)、Denver Nuggets(USA)、福岡Limitz、Lake Shiga BBC。そして、本年1月1日(移動日)から通算8チーム目となるNO-EXCUSEへ移籍をしました。「また移籍かよ?」そんな声が聞こえてきそうだけど、そう言われれば「ハイ!自分らしく生きるために行動しました!」と言うしかないよ(苦笑) 約2年半ぶりとなる体験記(コラム)のタイトルは、やっぱり“Jの本音”しかないでしょう(笑) 今回は“移籍への道Part2”の内容と合わせて、現在の本音を正直に書いてみたいと思います。まっ、過去の体験記を読み返してみても、「なかなか思い通りにはいかないものだなぁ」と実感しております。そんな中でも一番キーとなっている言葉を捜すとすれば、「タイミング」かな。そして、そのタイミングを自分なりに察知したら「迷わず動く」ことは一貫して変わらない。
まず、2004年のアテネパラを振り返ると、「あの大会では全く力を発揮できずに終わってしまった・・・」というのが今の想い。正直、全然納得がいくものでは無かったし、多くの不満や後悔を残す大会となってしまった。それでも、宮城MAXの藤本選手など若手選手の成長は著しく、漠然と「日本チームは良い方向に変わっていくんだろうなぁ」と思った。それに対して「これ以上自分の輝けるステージがイメージできない」という気持ちから日本代表を退く決意をした。まあ、あの時点では精一杯考え抜いた末の決断だったから、代表を退いたことについて後悔はないよ。その後、福岡で立ち上げた新チームでの活動では、色々な意味で挑戦の連続だったから刺激的で楽しかったぁ。
そんな中で訪れた転機。ちょうど仕事で行き詰っていた時に沸いて出た、JICA(青年海外協力隊)での国際ボランティア活動。しかも、車いすバスケットの普及とナショナルチームの強化。仕事を辞すことやLimitzを退くことに対しては大きなリスクと喪失感はあったが、自分に訪れた“タイミング”を信じて迷わずに決意。もちろん、多くの方々にご心配やご迷惑をかけることになったし、大好きなバスケをプレーヤーとしではなく指導者にまわることに対して多少の葛藤もあったが・・。しかし、マレーシアでの活動は超刺激的で、毎日が本当に勉強という感じだったし、感動の連続で自分の人生においては忘れられない時間となった。本当はもっと長い期間で活動を続けたいという思いもあったけど、やはりボランティアとしての活動に限界を感じたので帰国を決意。だって、俺も30代後半なのに無職、無収入ではヤバいっしょ?一生遊んで暮らせるだけの経済的余裕があれば別の話だけど。それに、ボランティアというのは、全ての面において、建設的ではないし継続性に乏しいという一面も思い知ったからね。
帰国後、再就職を考えるにあたり色々と悩んだことは事実。と言うのも、やっぱりバスケとかスポーツ用の車いすに関わった仕事がしたいという気持ちが強かったから。前の会社に頭を下げて戻らしてもらうか?それとも違う道を歩むのか??実は会社を辞してマレーシアに渡る前から色んな道を模索していたんだけど、そんな中で出会った松永製作所に就職を決めたのは、カッコよく言えばチャレンジ精神が旺盛な俺の運命(笑)松永製作所はスポーツ用の車いすに関しては無名の会社だったけど、社長をはじめ会社の方たちと腹を割って話し合ってみたら、みんなスポーツの分野でも一流になりたいという熱意は伝わってきたんだ。ただ、色々な事情から少しだけ出遅れていただけ。だからこそ、この会社で一流を目指したいと思ったし、みんなと一緒に歴史を築き上げていきたいと思った。入社後は、外部の人たちから「なんで松永なの?」、「松永でスポーツなんて無理でしょ?」って言われたけど、俺は自分の信念と“タイミング”を信じて決断。まあ、この決断が正しかったと確信できるように、今後の結果で示していくつもりデス。後悔なんてさらさら無いよ。
さて、ここからが問題というか実はあまり書きたくないことだけど、表題のとおり“本音”で書き続けることにしよう。仕事の関係で岐阜に引っ越したんだけど、これを機にプレーヤーとしてバスケも再出発を決意して滋賀に入部志願。ただ、すでに気づいている人も多いかと思うけど、滋賀に入部してからというもの、このJs-pageで話題に取り上げたのは最初だけだった。
本当は滋賀のみんなと日本選手権に出場したいと考えていたけど、いざ会社で仕事を始めると想像以上に忙しい毎日で練習に行くこともままならない状況に陥ってしまった。また、チームのみんなも優しいというか?今までの歴史を継承しているというか??あまり勝負に拘ったり「絶対全国大会に行く!」というような強い意志を感じる雰囲気ではなかった・・・。結局、俺自身も全くチームに貢献できないまま2年という月日が流れてしまった。後半は「やっぱり引退したままの方が良かったの?」って、自問自答の日々。俺にとっては珍しく辛く苦しいバスケ道の時間になってしまったし、チームのみんなにも申し訳なかったと思っている。
そんなある時期、大きな転機が訪れた!
仕事で全国を回りながら、そろそろ営業活動を強化しようと考えていた時に、関東でマックスプレジャー(松永製作所のスポーツブランド名)のプチブームが起こっているという噂を聞きつけたのである。で、関東を中心に回ってみると色んなビジネスプランとチャンスが頭を駆け巡った。そこで迷わず即決したのが「おら東京さ行くだ!」さっそく会社に戻って上司に相談すると、「お前に任せる」との言葉をいただき、東京中心での営業活動方針が決まったのである。そんな2008年の夏、会社に無理を言って休暇を貰い、バスケ仲間と北京パラリンピックの観戦ツアーに出かけた時のこと、親友の晋平やNO-EXCUSEの面々とも行動を一緒にする時間を得た。全日本チームの活躍や日本のトップクラスで活動する面々との語り合いの中で、「やっぱりバスケがしたい!」という思いが湧き上がってきた。それから後の話は書くこともないと思うんだけど、トントン拍子でNO-EXに入部する話が進んだというわけ。この時も“タイミングだ!”と直感したもの。そんなこんなで、2009年1月から晴れてNO-EXのメンバーとしてバスケットを再開するに至っている訳です。
我ながら、本当に自分勝手な人生を歩んでいると思う。でも、常に自己責任を感じながら自分の人生を充実させるために、一生懸命考え、悩み、苦しみを感じながら決断をしている。つもり?(苦笑) 昔読んだ中谷さんの本の一説に「人生は決断の分だけ楽しみがある」というのがあった。 俺もまさにその通りだと確信しているからこそ、何かを失うことも恐れずに決断を楽しんでいるような気がする。きっと、たくさんの人に迷惑を掛けているかも知れない。きっと、たくさんの人に否定されるかも知れない。でも、きっとたくさんの人にパワーを分け合えていると信じて、これからも突っ走っていこうと思う。
今日の最後。“NO-EXCUSE”とは“言い訳をしない”という意味であるが、ふと自分の言動を振り返ってみると結構言い訳ばかりしている気がする。自分らしく生きて後悔を少なめにする人生がモットーなんだけど、NO-EXCUSEも意識して自分に取り入れていきたいね。もし、EXCUSEしている神保を見かけたら「NO-EXCUSE!」と忠告して貰えたら幸いです。