2002年10月29日

引っ越し 〜初めてのルームメイトとデンバーのスポーツ事情

 キャンプが終った日の午後、マネージャーのラリーやコーチのエリックと共に今後のことについて話をしました。何と言ってもまずは部屋探しが急務なのですが、デンバーはアパートの家賃が非常に高いのです。例えばスタジオタイプ(ワンルーム)のアパートで、部屋代だけでも$600(約7万5千円)くらいは掛るのです。しかも、今回は半年間の短いステイと決めているので、家具やベッドを買うのもバカバカしい。と言うことで、ラリーには家財道具が全て揃っている部屋をリクエストしたのでした。そして部屋が見つかるまでは、しばらくキッチン・家具付きのウィークリーホテルに部屋を取ってもらい、デンバーでの生活が始まりました。ちなみに、そこの支払いはチームのクレッジトカードでした。

  まずウィークリーホテルへの移動は、チームメイトとなったロブ選手(96年アトランタパラの全米代表でJと同じ年齢)が手伝ってくれました。しかも、ロブはホテルまでの車中、デンバーの生活に必要な様々な情報を細かく教えてくれたのです。また、当時まだ車が無かったJに対して、「買い物等の手伝いは、チームの人間が交代でするから!」と言うのです。そして圧巻は“チームメール”でした。(チーム関係者のメルアドをグループ化して必要な情報を交換している) まず、ロブがホテルの住所や連絡先をみんなに知らせるために、Eメールを入れてくれたのです。しかもそこには、異国の地に一人で居るJの気持ちを察してか?「なるべくJと連絡を取り合い、ホテルにも遊びに行こう!」と書いてくれたのです。すると、「家に夕飯を食べに来ないか?」とか、「ヘルプが必要なときはいつでも電話をくれ!」といったメールや電話が何人かの選手、スタッフから来たのでした。この時、Jはまだ体調が悪く、胃痛と吐き気に苦しみながら心細い気持ちでいたので、本当に涙が出るほど嬉しかったです。正直なところ、それまではデンバーで日本人の知り合いを作るべく色々と探っていたのですが、「俺には素晴らしいアメリカ人の仲間がたくさんいる!」という事に気づいたら、そんなことはどうでも良くなってしまいました。

  翌日、ようやく体調も回復しつつある中、ラリーから電話が入りました。「ジェーミーの家に住まないか?」というものでした。ジェーミーはデンバー市内に一人で暮らす車椅子バスケの選手です。彼はクラス1(身体の障害が重度)の選手で、もの静かな性格ということもあり、プレー自体は非常に地味なのですが、ピック&ロールやフリースロー、イージーシュートをきっちり決めるところなど、基礎がしっかりできている素晴らしい選手です。しかし、彼は現在手首を痛めており、長期にわたりタフさを要求されるD1でのプレーは無理と判断したようで、今シーズンはチーム練習のみ参加している選手なのです。

 数日後、ラリーに連れられてジェーミーの家を訪ねてみると、「素晴らしい!」の一言でした。 まず、広いリビングには65インチのマンモステレビが置かれており、ベッドルームとバスルームが各2つずつ用意されています。しかも、空いている部屋にはベッドやルームランプ、テーブルなども用意されており、すぐにでも生活が始められる状態でした。また、家はダウンタウンに近いため、とても便利な立地条件なのです。 特にJが最も気にしていたプシセンター(NBA:プロバスケのアリーナ)まで、車で3分という近さなのです。おまけに、日本食料品店やレストランも多いダウンタウンの繁華街へも5分と掛らない近さなのです。もちろんジェーミー自身も素晴らしい人格の持ち主です。彼は31歳と年齢も近く、アメリカ人にしては几帳面で誠実感が漂っていいました。また、Jが一緒に暮らすことについて抱いた、色々な質問に対しても誠実に答えてくれました。そして、「自分の家だと思って自由にやってくれ!」と笑顔で返してくれたのです。
そして、Jは即決でジェーミーの家へ引っ越すことになったのです。 後で知ったのですが、彼はイリノイ大学を卒業しており、在学中には車椅子バスケットチームにも所属していたということです。そして、彼の堅実で素晴らしいプレーは、そこで養われた事が判明したのです。それにしても31歳の若さで家を持ち、ゆうゆう自適に暮らしているジェーミーが羨ましいのはJだけ?。


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マンモステレビのあるリビングにてジェーミーを撮影



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デンバーのダウンタウンを家の近所の通りから眺める 


 ところで先日、ペプシセンターでナゲッツの紅白戦があり、ジェーミーと観戦してきました。まだシーズン前の紅白戦と言うこともあり、この試合は入場料も駐車場も無料で開放されました。多分コロラドの住民に対して、今シーズンのチーム紹介や宣伝も兼ねていたのでしょう。それと、選手の顔ぶれは一人の選手(ジュワン・ハワード)を除いては、知らない選手ばかりで、まさに新チームに改革中という感じでした。ただし、シーズン前とはいえ、試合の内容が余りに悪かったので、観ている人々は口々に「大学生の方がましだ!」とか、「やっぱりコロラドはブロンコス(アメフト)か、アバランチ(アイスホッケー)だな!」と言っていました。まあ、確かに試合内容は、かなりひどかったのですが・・・・。 また、ペプシセンターはオープンして2年目の新しいアリーナで、とてもきれいな施設でした。が、実は97年に全日本の遠征で、Jは一度デンバーを訪れたことがあるのですが、その時に観戦したナゲッツのアリーナは、既に壊されて無くなっていたのです。(ちょっと残念です)

ここで、アメリカのスポーツ人気を知れる話を一つ。 コロラドは人口350万人程度の州で、約半分がデンバー周辺に集まっていると言われています。しかし、それでもデンバー周辺人口は180万人程度です。(確か名古屋市の人口だけでも300万人くらいはいたと思います)  それにも関わらず、デンバーには4大メジャースポーツチームの全てが存在し、且つ、全てがしっかりと収益を上げているというから凄い!(他にもサッカーなどマイナースポーツのプロやカレッジのスポーツチームも多数ある) しかも、バスケのペプシセンターとアメフトのインベスコフィールドが築2年、そして、最も古い野球のクアーズフィールドでも7年という新しさだそうです。いったい総工費はどうのくらい掛っているのだろうか?? また、選手の給料だけで幾ら支払われているのだろうか?? そして、アメリカの人々はスポーツ観戦に、いったい幾ら費やしているのだろうか?? それらを考えると不思議な思いです。



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ペプシセンター(NBA:ナゲッツ&NHL:アバランチ) 


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インベスコフィールド(NFL:ブロンコス)


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クアーズフィールド(MLB:ロッキーズ) 


日本の人口はアメリカの約半分ですが、プロスポーツチームは野球とサッカーを合わせても、いいとこ40チーム程度でしょう。しかも、閑古鳥状態で経営難のチームも少なくないと聞きます。そして、大学のスポーツもアメリカに比べれば月とスッポン。それに引き換えアメリカでは、4大メジャースポーツだけでも約120チームが存在し、マイナースポーツ&リーグを合わせれば200チームは下らない。それにカレッジスポーツの数や人気を考えると、やはりアメリカのスポーツ熱は“スゴイ”の一言です。 ちなみにジェーミーは年間を通して、全競技で10〜15回程度、スタジアムへ観戦に行っているらしいのですが、Jも既にバスケの試合を中心に、10試合程度の観戦予定を立てております。

  まあ、今回は6ヶ月間という短いデンバー生活なので、できるだけ多くの発見や感動、そして楽しみを見つけて、充実したものにしたいと思っています。 まずは、本業?のバスケで納得のいくシーズンを送ることに集中したいと思いますが、それ以外では、コロラドの素晴らしい自然を堪能すべく、各地への散策を開始しています。また、他にも数年ぶりにチャレンジ予定のスノースキーや、お隣(ユタ州やアリゾナ州)にも、車での旅行を計画中です。 また、それらは実現次第、体験記でお伝えしていきたいと思います。

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2002年10月12日

移籍への道 (後編) 〜苦しんで勝ち取ったD1の座

 渡米を9月26日に決めたJは、ラストスパートで23日に北海道巡業を済ませ、長かった全国巡業の旅を一旦終えました。そして、夜通しフェリーに乗って千葉の本社へ戻ったのは翌24日の夕方でした。その後事務処理と渡米の準備に掛ったのです。翌日も朝から郵便局や携帯ショップへと走り、慌てて諸手続きを済ませた後、本社へ戻って打ち合わせや仕事の引継ぎを済ませたのでした。何せ出発が26日の夕方なのにも関わらず、殆ど何の準備もしていなかったのです。いくら旅慣れているとは言え、ちょっと無謀なスケジューリングだったことは言うまでもありません。それでも、いざ出発直前になってみれば、全て順調に進んでいるという充実感と満足感はありました。

 シカゴへ向かう飛行機の中では夕飯を食べた所くらいまでは覚えていますが、その後は到着1時間前くらいまで珍しくトイレにも行かず、爆睡していたようです。こんなに短い(早い)と感じた国際便のフライトは初めてです。また、少々心配していた入国審査も簡単にパスして、シカゴから乗り継ぎデンバーへと向かったのでした。しかし、デンバー空港で大きなアクシデントに見舞われたのです。何とバスケ用車椅子の背もたれパイプが片側完全に折れていたのです! 明後日からのキャンプに参加しなければ「選手登録はない」という言葉を思い出してかなり焦りました。いや切れました! というのも、実はこれが初めてではなく3度目だからです。最初もバスケ車の背もたれで、2度目は普段車のホイルを曲げられ・・・・・・。とにかくアメリカの航空会社は荒いのです。ただ幸い出迎えに来てくれたタズ選手の知り合いの修理工場を紹介してくれたので、翌日には乗れるようになったのですが、その時は本当に焦りました。

  その後ホテルに入ってからは、週末のキャンプに備えてゆっくり休養をとっていたのです。 が・・・・・・・・。なんとここでも最悪の事態が起こったのです。実は渡米前の疲れや時差ぼけ、緊張などからか?珍しく食欲不振に見舞われ少し体調を崩していたのですが、薬を飲んでも症状は悪くなるばかりで、その後頭痛、胃痛、吐き気と体調は最悪の状態に陥っていったのです。特に胃痛と下痢がひどく、また何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまという有様でした。

  キャンプ初日、一応コーチのエリックとマネージャーのラリーに相談しましたが、「やれる所までやれ」と言われました。でも、もしプレーが悪かったり、できなかった時のことについては怖くて聞くことができませんでした。腹に力を入れるとヤバイ状態、走って身体を揺らすと吐き気がしてもっとヤバイ状態になりながらも、後がないという気持ちだけで練習に参加しました。休憩時間にトイレで吐き、飯の時間や本当にヤバイ時には申し出てコートサイドで横になる。それでも何とか半分程度メニューをこなしました。練習の内容はチェアスキル(走りこみ)と、ドリル、ゲームといったシンプルな内容で目新しいものは特にありませんでした。

  初日のキャンプには昨年のメンバー7人と、Jを含む新参者が7人の14人で始まりました。新参選手の中には北九州GCでカナダ代表だったロス選手やユタから招待を受けたジェフ選手などライバル選手の実力も高い。また、最終的には7,8人に絞るという話だったのですが、どうみても5人は決まっている感じだったので、残る3枠を9人で争う格好になりました。と言っても3人は誰が見てもD2選手なので、実質は6人で3枠を奪い合うと言うのがJの見方でした。ところでその晩、参加した選手、スタッフ全員でチームディナーなるものがあったのですが、もちろんJはホテルに直帰して休みました。タダ飯を食い損ねたのは残念ですが、その時は食べ物を見るのも辛かったのです。

  翌日ジムへ連れられて行くと、練習開始時間になっても来ない選手が5人いました。コーチに確認すると、どうやら昨日の段階で落とされた様子。その中には昨年デンバーでプレーしていてレン選手もいました。彼は翌日も残ると信じていたようで、バスケ車や荷物がジムに置きっぱなしになっていました。2日の調子は更に悪く午前の練習は見学にさせてもらいました。しかし、どこかでアピールする機会を作らねばと思い、コーチに相談したところ「午後の紅白戦に10分でも15分でも構わないから出てみろ」と言われて覚悟を決めました。ゲームが始まった直後から最悪の状態だったので、シュートやDFで見せることは難しいと判断しパスとピックだけに集中しました。結果、見方のビッグマンに何度となくファインパスを通し、マークからは「ジンボはピックが上手いからマシーンみたいだな!」と褒められました。そして、15分間のアピールタイムは終了しました。こんなに体調が悪い状態であそこまで集中できたのは、きっと後にも先にもないことでしょう。しかし、その後トイレに駆け込んで嘔吐を繰り返したことは言うまでもありません。

  キャンプは想像以上にハードで長かった。初日は朝の8時に始まり夕方5時までみっちり8時間あったし、2日目も朝8時から3時まで約6時間も行われました。また、選手の真剣さも想像以上で、激しいぶつかり合いやののしり合いも多少見受けられました。特に紅白戦ではタズがマークに対する厳しい接触で、マークが切れてファイヤーするという事件も起こりました。でもそれらは真剣にプレーしているからこそ起こるもので、ある意味仕方がないものだと思います。また、選手は練習が終れば皆と握手をして楽しく語り合う友達同士に戻ります。ののしり合うのは見習えませんが、本番さながらの練習姿勢や気迫は日本の選手も見習うべきところだと思いました。

  キャンプ終了後、全員でジムの外へ出てミーティングをしました。外は10月だと言うのに20度以上ありとても暖かかったです。選手はビール(Jはスポーツドリンク)で乾杯しながら、バスケの話で盛り上がりました。そして、Jはコーチのエリックに呼ばれてデンバーナゲッツのウォームアップスーツと帽子を渡されました。そして一言だけ「We need you!」と。渡されたそのスーツはNBAのデンバーナゲッツの物と全く同じもので、Jがとても憧れていたものでした。また、後日新しいゲームシャツやパンツ、練習用のリバーシブルなども支給するとのことでした。ちなみにJが希望した背番号は55番です。(他の選手とブッキングしているので確定ではありませんが) それしにしても、その時の感動を言葉で表すのは非常に難しいのですが・・・・・、でもこんなに苦しんで掴んだD1の座って、本当に何にも変えがたい自分だけの勲章だと思っています。

  この1,2週間を振り返えってみると、無謀なスケジューリングや自己管理の悪さに加え練習不足だったことなど、アスリートとして反省すべき点は多い。しかし、もっと前からの軌跡をたどってみれば、着実にステップアップをしている訳で、あまり悲観的になることもないかなーと思っています。アメリカナイズされてあくまでもポジティブなJでした。 まあ自分の人生ですから自分が良ければ良いのですよ。

ということで、今シーズンの開幕は今月25日からカリフォルニア州のサンディエゴから始まります。この大会はD1,D2混合の大会らしいのですが、マネージャーのラリー曰く「ウォーミングアップを兼ねるつもりで予定を入れた」とのことでした。Jはこの遠征が終ったら国体に出場するため一旦日本へ帰ることにしております。 そして、目指すは国体優勝と来年3月末にアリゾナ州フェニックスで開催される全米選手権(ファイナルフォー)への出場です。

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2002年10月09日

移籍への道 (前編) 〜まず、今オフにあった様々な出来事から紹介します

 いよいよJの季節=米国のバスケットボールシーズンがやって参りました! 一時は日本に完全帰国も考えていたのですが、やはり終わりにすることはできず、再びアメリカにやって来ました。しかし、日本に戻っていた半年の間にも想像し得なかった出来事が多々あり、とても楽しく充実した生活を送ることができたのです。そこで今回は、まずオフの間に日本で起こった様々な出来事を絡めて、移籍までの道のりを紹介したいと思います。また、果たしてこの話の最後に、Jは再びアメリカでプレーするチャンスを手にできたのか?!?!

 まず、昨シーズンレイクショアでD1昇格を果たしましたが結果は惨敗。シーズン後半にその原因について、ボスのスコットと話し合いましたが、彼いわく「レイクショアは財団の一プログラムとしてチームを運営しているので、他のD1チームのようにお金で選手を引き抜くことはできない」との答えが返って来たのです。そして、「田舎のクラブチームとして出来るのは、やはりD2が限界かも・・・」と。 話は良く理解できました。が、Jは全てを掛けてアメリカまで来ているわけで、勝つこと、常に上を目指すチームであること、そして何よりD1でなければ意味がないことを説明して、先シーズン限りでチームから去ることを伝えました。

  2002年3月末に一時帰国したあとは、シーズン途中で悪くした腰と肘の療養も兼ねて、しばらくゆっくりしておりました。良く言えば「療養生活」、悪く言えば「プー太郎生活」の期間です。(笑) そして、風呂屋のキャプテンである哲さんにお世話になりながら、風呂屋での活動を展開したのです。そんなある日、オーエックスの本社で営業部長のO氏と色々な話をする機会があり、再びアメリカに戻りたいという、Jの我がままを許してもらえるのであれば、是非オーエックスで働きたいという話になったのです。社内会議の結果?晴れてオーエックスの社員に迎えていただくことになり、3ヶ月に及んだ長いプー太・・・、いや療養生活にも終止符を打つことになったのです。

  入社数日後に社長より命ぜられた仕事は、「とりあえず九州を回ってこい!」でした。それから数日後には九州へと向かったのでした。また、それ以降も南は九州の熊本から北は北海道の旭川まで全国のチーム練習の会場に営業を兼ねて寄らせていただきました。はっきりと覚えてないんですが、全国約25ヶ所で延べ300人くらいの選手と一緒に練習をさせていただきました。その際どこに行っても大変親切にしていただき、そのほとんどが、練習後にチームの皆さんと夕飯(飲み会?)をご一緒させていただいたのでした。中には自宅に泊めていただき、朝まで飲みながらバスケの話で盛り上がったことも度々あり、「何とも楽しくて充実した仕事を得られたものだ!」と思ったものです。しかし、そのお陰で毎日のように大好きなビールを飲みまくり、3ヶ月でベスト体重より4キロも増えてしまったのでした。 ところで、何より嬉しかったのはバスケを通してたくさん選手と知り合え、バスケを超えて色々な話が出来たことです。それは間違いなく自分の中で大きな財産となっています。必ずまた巡業の旅に出ますので、その節はみなさんよろしくお願いいたします。

 話は反れましたが、移籍に交渉が本格的に始まったのは、前回の体験記に書いた、5月末にダラスであった3on3大会の時からでした。この旅の間に、以前から話があったシャーロットのメンバー数人と移籍希望者とで密会をしたのです。ここにはJが尊敬するデビッド・カイリー選手が居るのですが、彼は身体の調子が悪く来期はプレーできない可能性があることを伝えられました。また、思うようにリクルートも上手くいっていないため、下手をするとD2降格の選択を余儀なくされるとの話もあったのです。そこで、Jは危機感を感じ、シャーロットとの話を続けながらも他のチーム状況についても探りを入れ始めたのです。また、この旅に同行した、千葉の安選手もアメリカ行きを目指していたため、彼のプレー先を見つけるためにも手当たり次第の選手や関係者に接触しました。そして、Jを必要としてくれて尚且つ上位を目指せそうなチームとして候補に上がったのが、デンバーとテネシーの2チームでした。Jはシャーロットを含む、この3チームと平行して話を進めました。

 それと、こぼれ話を一つ。実はD2に降格したシャーロットがリクルートをしていた目玉選手にカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手がいました。もちろん何処のチームも彼を欲しいわけですが、その彼がシャーロットを断るために書いてきたメールが非常に興味深かったのです。(このメールは当時シャーロットの一員としてJにも送られてきました) 普段クールでもの静かな彼が、バスケに対する思いを延々と書いている長いメールには、とても誠実に彼の気持ちが書かれていました。特に興味深かったのは彼や友人でカナダ代表のジョーイ・ジョンソン選手をNBAの選手に例えたエピソードが面白かった。彼のバスケに対する深い思いが良く伝わってきました。その後、彼にメールで来期のプレー先を尋ねたところ、ミシガンで彼の親しい選手を集めた新チームを結成したとのことですが、それも彼らしい選択のような気がします。

 8月上旬、コロラドから一通のエアメールが届きました。これはJが最も必要としていたチームからの招待状です。これがないと、米国にVISAを行使しての長期滞在をすることが出来ないのです。この瞬間Jの心は決まりました。そして、8月下旬のGCで来日していたマーク選手と会うことが出来たのです。しかーし、ここに大きな落とし穴?が待っていたのでした。彼との話の中で彼は幾度となく「9月下旬のチームキャンプに参加しなければJの移籍はないと思う」と言ってきたのです。もちろんキャンプは当初から参加するつもりでいたので、はじめは普通に受け取っていたのですが、どうも彼の言い方が不自然なのです。少し心配になったJは「それはただのキャンプか?あるいは、トライアウト(テスト)にあたるものか?」と尋ねました。すると彼は少々困った顔をして「トライアウトにもなっているが、チームはJを必要としていると思うよ」と言ったのです。その「思うよ」って言うのは何さ! この時Jはイヤーな予感がしたのです。結局Jはデンバーにとって絶対に必要な選手ではなく、テストで篩い(ふるい)に掛けられる選手達の一人なのだと。

 自慢ではないが、今まで3度のパラと多数の国際大会を経験してきました。それに加え米国で2シーズンプレーした実績もある。しかし、それにも関わらずやっぱりトライアウト(テスト)かい! しかも32歳、ベテランと言われる選手になっても・・・・・・。正言って悔しい思いと、万が一落とされたときの不安感や悲壮感が同時に込み上げてきた。やっぱりD1の敷居は高いなー(またはJの実力が低いだけ?)と、思いつつ、「それしか方法がないならやるしかないかー」と、独り言を言いながら腹を決めて渡米の日を待ったのでした。

後編に続く いよいよJの季節=米国のバスケットボールシーズンがやって参りました! 一時は日本に完全帰国も考えていたのですが、やはり終わりにすることはできず、再びアメリカにやって来ました。しかし、日本に戻っていた半年の間にも想像し得なかった出来事が多々あり、とても楽しく充実した生活を送ることができたのです。そこで今回は、まずオフの間に日本で起こった様々な出来事を絡めて、移籍までの道のりを紹介したいと思います。また、果たしてこの話の最後に、Jは再びアメリカでプレーするチャンスを手にできたのか?!?!

 まず、昨シーズンレイクショアでD1昇格を果たしましたが結果は惨敗。シーズン後半にその原因について、ボスのスコットと話し合いましたが、彼いわく「レイクショアは財団の一プログラムとしてチームを運営しているので、他のD1チームのようにお金で選手を引き抜くことはできない」との答えが返って来たのです。そして、「田舎のクラブチームとして出来るのは、やはりD2が限界かも・・・」と。 話は良く理解できました。が、Jは全てを掛けてアメリカまで来ているわけで、勝つこと、常に上を目指すチームであること、そして何よりD1でなければ意味がないことを説明して、先シーズン限りでチームから去ることを伝えました。

 2002年3月末に一時帰国したあとは、シーズン途中で悪くした腰と肘の療養も兼ねて、しばらくゆっくりしておりました。良く言えば「療養生活」、悪く言えば「プー太郎生活」の期間です。(笑) そして、風呂屋のキャプテンである哲さんにお世話になりながら、風呂屋での活動を展開したのです。そんなある日、オーエックスの本社で営業部長のO氏と色々な話をする機会があり、再びアメリカに戻りたいという、Jの我がままを許してもらえるのであれば、是非オーエックスで働きたいという話になったのです。社内会議の結果?晴れてオーエックスの社員に迎えていただくことになり、3ヶ月に及んだ長いプー太・・・、いや療養生活にも終止符を打つことになったのです。

  入社数日後に社長より命ぜられた仕事は、「とりあえず九州を回ってこい!」でした。それから数日後には九州へと向かったのでした。また、それ以降も南は九州の熊本から北は北海道の旭川まで全国のチーム練習の会場に営業を兼ねて寄らせていただきました。はっきりと覚えてないんですが、全国約25ヶ所で延べ300人くらいの選手と一緒に練習をさせていただきました。その際どこに行っても大変親切にしていただき、そのほとんどが、練習後にチームの皆さんと夕飯(飲み会?)をご一緒させていただいたのでした。中には自宅に泊めていただき、朝まで飲みながらバスケの話で盛り上がったことも度々あり、「何とも楽しくて充実した仕事を得られたものだ!」と思ったものです。しかし、そのお陰で毎日のように大好きなビールを飲みまくり、3ヶ月でベスト体重より4キロも増えてしまったのでした。 ところで、何より嬉しかったのはバスケを通してたくさん選手と知り合え、バスケを超えて色々な話が出来たことです。それは間違いなく自分の中で大きな財産となっています。必ずまた巡業の旅に出ますので、その節はみなさんよろしくお願いいたします。

 話は反れましたが、移籍に交渉が本格的に始まったのは、前回の体験記に書いた、5月末にダラスであった3on3大会の時からでした。この旅の間に、以前から話があったシャーロットのメンバー数人と移籍希望者とで密会をしたのです。ここにはJが尊敬するデビッド・カイリー選手が居るのですが、彼は身体の調子が悪く来期はプレーできない可能性があることを伝えられました。また、思うようにリクルートも上手くいっていないため、下手をするとD2降格の選択を余儀なくされるとの話もあったのです。そこで、Jは危機感を感じ、シャーロットとの話を続けながらも他のチーム状況についても探りを入れ始めたのです。また、この旅に同行した、千葉の安選手もアメリカ行きを目指していたため、彼のプレー先を見つけるためにも手当たり次第の選手や関係者に接触しました。そして、Jを必要としてくれて尚且つ上位を目指せそうなチームとして候補に上がったのが、デンバーとテネシーの2チームでした。Jはシャーロットを含む、この3チームと平行して話を進めました。

 それと、こぼれ話を一つ。実はD2に降格したシャーロットがリクルートをしていた目玉選手にカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手がいました。もちろん何処のチームも彼を欲しいわけですが、その彼がシャーロットを断るために書いてきたメールが非常に興味深かったのです。(このメールは当時シャーロットの一員としてJにも送られてきました) 普段クールでもの静かな彼が、バスケに対する思いを延々と書いている長いメールには、とても誠実に彼の気持ちが書かれていました。特に興味深かったのは彼や友人でカナダ代表のジョーイ・ジョンソン選手をNBAの選手に例えたエピソードが面白かった。彼のバスケに対する深い思いが良く伝わってきました。その後、彼にメールで来期のプレー先を尋ねたところ、ミシガンで彼の親しい選手を集めた新チームを結成したとのことですが、それも彼らしい選択のような気がします。

 8月上旬、コロラドから一通のエアメールが届きました。これはJが最も必要としていたチームからの招待状です。これがないと、米国にVISAを行使しての長期滞在をすることが出来ないのです。この瞬間Jの心は決まりました。そして、8月下旬のGCで来日していたマーク選手と会うことが出来たのです。しかーし、ここに大きな落とし穴?が待っていたのでした。彼との話の中で彼は幾度となく「9月下旬のチームキャンプに参加しなければJの移籍はないと思う」と言ってきたのです。もちろんキャンプは当初から参加するつもりでいたので、はじめは普通に受け取っていたのですが、どうも彼の言い方が不自然なのです。少し心配になったJは「それはただのキャンプか?あるいは、トライアウト(テスト)にあたるものか?」と尋ねました。すると彼は少々困った顔をして「トライアウトにもなっているが、チームはJを必要としていると思うよ」と言ったのです。その「思うよ」って言うのは何さ! この時Jはイヤーな予感がしたのです。結局Jはデンバーにとって絶対に必要な選手ではなく、テストで篩い(ふるい)に掛けられる選手達の一人なのだと。

 自慢ではないが、今まで3度のパラと多数の国際大会を経験してきました。それに加え米国で2シーズンプレーした実績もある。しかし、それにも関わらずやっぱりトライアウト(テスト)かい! しかも32歳、ベテランと言われる選手になっても・・・・・・。正言って悔しい思いと、万が一落とされたときの不安感や悲壮感が同時に込み上げてきた。やっぱりD1の敷居は高いなー(またはJの実力が低いだけ?)と、思いつつ、「それしか方法がないならやるしかないかー」と、独り言を言いながら腹を決めて渡米の日を待ったのでした。

後編に続く 

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