2002年02月25日

交通違反で切符切られました 〜アメリカの交通違反の処理システム

 哲さーーん、チームTシャツを作製するため、ダウンタウンのショップで打ち合わせしてる間に、駐車違反で切符切られちゃいました。チームの経費で払ってくださいよ!(笑) まあ、路駐した俺のミスなんですが、たった10分くらいの間だったのでガッカリです。金額はたった10ドルなので、日本に比べればかわいいものなんですけど・・・。と、言うことで今日は交通違反やお巡りさんについて書いてみます。

 神保が2年間の生活でお巡りさんに捕まった回数はというと、ざっと数えて6、7回。全てスピード違反だったのですが、まずはその方法を説明します。アメリカでは、日本のようなオービス(自動取締用カメラ)は無く、殆どがパトカーによる現行犯の取り押さえです。例えば夜の高速道路で路肩にライトを消して止まっていたり、何か障害物に隠れて待っていたりするのです。また、ときどき覆面パトカーなるものも走っております。

  確か一番初めに捕まったのが、渡米して3ヶ月とたたない頃に、ケンタッキー州内の高速を走っていた時でした。制限速度が70マイル(112キロ)の道を82マイル(131キロ)で走っていたんですよ。いや厳密に言うと、走っていたと勘違いをしていた時のことです。その時、ふと前方の路肩を見ると誰かが捕まっているのが見えました。「かわいそうに、覆面パトカーに捕まってるよ」と、独り言を言いながら快調に走っていると、そのお巡りさんがあわてて車に乗って走り出すのがバックミラーで見えたのです!「まさかなーー」と思いつつ減速して走っていると、神保の真後ろに追走してきて「車を止めろ」と合図をしてきたのです。お巡りさんが何と言っているのかイマイチ聞き取れなかったのですが、どうやら制限速度が50マイル(80キロ)の道だったのです。交通量の多い街に近づいて、制限速度が70マイルから50マイルに変っていたようなのですが、その標識を見逃していたらしい。神保は下手な英語と身振り手振りで「制限速度が70マイルだと思っていた」と、説明したのですが、その警官は「コート(裁判所)で話しなさい」と、呼び出しの日付を書いた書類を一通渡して去っていきました。32マイル(51キロ)オーバーは、もはや違反切符では済まない重罪だったのです。

  その書類を持って、アラバマへと帰ってきたのですが、周囲の人に相談すると「かなりの罰金か刑務所行き」と言われ、絶望しました。そこで、少しでもきちんとこちらの意思や話が伝わるようにと、近所でお世話になっていた日本語を話せる牧師さん(彼は宣教師として日本に住んでいた経験がある)に通訳のお願いに行ったのです。すると彼から戻ってきた言葉は「間違っただけだから、多分許してもらえるでしょう」とのことでした。えーーー、うそーーーーーと思いながらも、その書類を牧師さんに託して連絡を待ちました。すると、数日後に彼から電話が入り、「裁判所に電話して説明したら許してくれましたよ」と言うのです。最初はその言葉を疑ったのですが、その後、書類を裁判所に送り返して一件落着となったのです。彼いわく「アメリカは事情を話せば、結構許してくれるのです」とのこと。「アメリカって寛大な国だなー」と、驚いたの同時に、日本の厳しさとは違う対応に「国が変るとこんなにも違うのかー」と感心したものです。また、そんなアメリカがとても好きになりました。(笑)

 その後も何度となく高速道路や郊外の道路でパトカーに追いかけられて捕まったのですが、あまり言い訳はしたくないので(捕まったくせに偉そうですが)、素直に謝って反省の意を示すと、いつも「気をつけて走りなさい」と許してくれるのです。また、「レイクショアでバスケをしている」というと、「あそこはバーミンガムでも有名だよな!」と、バスケの話で盛り上がり、簡単に許してくれるのです。そんな経験をしていくうちに、「アメリカのお巡りさんって想像していたほど怖くも、汚くなくもないな」と思うようになりました。多分、神保の場合はかなりラッキーが続いたのだと思いますが、これまで罰金を払ったことは一度もなかったのです。

 が、しかし冒頭でも書いたように、帰国を一ヶ月後に控えて、とうとう切符を切られてしまいました。しかも路上駐車の違反なので、知らぬ間に切符を切られてワイパーに挟まれていたのです。まあ、残念と言えば残念ですが、アメリカ生活の記念にもなるので、しっかりデジカメに収めておきました。(笑) ところで、罰金の支払方ですが、チェック(小切手)を罰金分書いて、違反切符と一緒にオフィスへ持参するか送れば完了です。もし、お金が無いとか不服があって支払わない時は、指定された日時に裁判所へ出頭することになり、有罪ならば刑務所行きの可能性もあるのです。 実は神保の違反切符を見ると、呼び出し日が“3月20日”となっているのです。しかし、日本のへの帰国は3月19日です。もう二度とアラバマに住むことはないでしょうし、これはどういうことになるのか・・・・・、もしかして“バックレ”がきくと言うことでしょか?(笑) しかも、神保は帰国の前に車を売る予定ですし、更にはタイトル(車の名義証)にある名前が、タイプミスで一文字間違っているのです。これは払わなくても絶対に分からないし、その後の問題もないことでしょう。



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COURT DATE 03/20/02と書いてあるのが、
裁判所への呼び出し日ですが、罰金は支払うので
裁判所へは行きません!


その話を何人かの米人の友達に話したら、みんな一様に「お前は最後の最後までラッキーだな!」と言って笑っていました。というのも、日頃からよく彼らに神保の「波乱な人生談」を語っていたのですが、これまで本当にいつもラッキーの連続だったのです。例えば、バイクで140キロのスピードでブロック塀に突っ込んで生きていたことから始まり、英語もろくに出来ないのに、渡米前ダスキンの奨学金を得たこと。アメリカで事故ったけど相手が親切で許してくれたこと。良く壊れると言われるアメリ車の中古を買ったにも関わらず絶好調なこと。遠征で一人だけ飛行機に乗り遅れたくせに、違う飛行機に代えてもらった関係で乗り継ぎがなくなり、予定より早くついてしまった話。度重なるスピード違反に対して一度も切符を切られたことがなかったことなどなど、いつもそんな話をすると「ジンボはラッキーな奴だ!」と言われていたのです。

 ところで、今回の違反切符はどうするかって?? まあ、最後の最後に切られたのも何か運命かもしれません。アラバマにお世話になった恩返し?の意味も含めて、しっかり支払ってから帰国をしようと思っています。もちろん、違反したのですからきっちり支払うのが当然と言えば当然の話ですね。そうそう、最後にもう一つ、アメリカの面白いところで、自分の住んでいる州(自分の免許が発行された州)以外で捕まって切符をもらったとします。しかし、そのまま払わなくても州外まで追いかけて書類がきたり、逮捕しにくることはないと言うことです。しかし、万が一そのままにしておいて、また同じ州に行って何かの拍子でバレたり違反して捕まると、即刑務所行きや重罪で罰せられるということです。要するに州が一つの国と同じような働きをしているのです。これは日本とアメリカ合衆国との大きな違いです。なんにしても、罰金は払わなければいけないのです!自分で違反を犯したのですから・・・・。 

 予断ですが、前回の記事で書いた“変なボリビア人”アレックス君は、ニューオリンズの“Mardi Gras”に行って、立ち小便の現行で捕まったらしく、12時間刑務所に拘束されたあげく、保釈金?として500ドル(約6万5千円)を払ってきたそうです。その後、裁判所にも呼び出されて、数日後に再びニューオリンズへ行き裁判を受けたようですが、まだ判決等の結果は聞いていません。現在は刑務所にいないことを祈るばかりです。この件に関しては「たかが立ちションで!」と思ったのですが、所変れば考えや扱いも全く違うということです。みなさんもアメリカへお起こしの際は、くれぐれも”立ちション“をしないように気をつけてくださいね!!

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2002年02月21日

ラスベガス遠征のレポート〜“試合のための練習“が重要かなー

 今日は年に1度のお楽しみ? ラスベガス遠征のレポートです。先週15日(金)に地元バーミンガム空港を出発したのですが、まず、ここで日本の遠征や集団行動と違うのは、各自で空港に行き、各自で勝手にチェックインを済まして、飛行に乗り込んでいく所です。ですから、早く来てお茶をしている人もいれば、時間ギリギリに来て駆け込んでくるような人もいて、結構その人の性格が出ます。普段神保は余裕を持って行く派なのですが、実は2年前のラスベガス遠征で笑える思い出があるのです。この時は、ある用事があって、一人遅れてラスベガスに向かったのですが、途中で2度ほど乗り継ぎがあるにも関わらず、1度目の乗り継ぎ地、ヒューストンで飛行機に乗り遅れたのです。焦りながらカウンターに行って事情を説明すると(単なるミスなんですが・・)、意外と簡単に他の航空会社の便に振り替えてくれたのです。しかも、無料だし直行便のため、当初の予定よりも2時間早くベガスに到着したのでした。もっと驚いたのはベガスに着くと、ホテルに到着しているはずのチームメイトたちが、空港のロビーでたむろしているではないですか! なんでも話を聞くと、彼らの飛行機は大幅に遅れて到着したらしいのです。何はともあれベガスの空港でみんなと合流できたのでした。 考えてみると、この頃から「ジンボはラッキーな奴だ」と言われるようになったような気がします・・・(笑) 少し話がそれましたが、今回はバーミンガムから直行便でベガスに到着しました。



 いつもホテルは観光地のど真ん中だったのですが、今回のホテルは少し離れた所で静かな感じでした。しかし、何人かの連中は到着したその晩から街へと繰り出していたようです。翌日話だけを聞くと、やれストリップショーやカジノへやらと、夜な夜な遊びまわっていたようです・・・。今回のルームメイトはスティーブだったのですが、彼は非常におとなしく個人行動が好きなので、アメ人からも“変わり者”呼ばわりをされています。ただ、真面目で夜遊びもしなければ、酒もタバコもやらないし、とてもキレイ好きなので、ルームメイトとしては最高のパートナーです。そんなスティーブがルームメイトだったせいか?今回のベガス遠征では、3泊したにも関わらず、夜は全て部屋でゆっくり彼と映画や冬季五輪を観て過ごしました。というか疲れて殆ど寝ていました。結局ネオンの街には行かずじまいでしたが、あまり行きたいところもなかったので後悔もないです。


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ホテルの前から撮った郊外の画
      (この時は時差の関係で、間違って2時間も早起きしたので散歩をしました。)


 さて、試合の方ですが今回は通常のリーグ戦のような位置づけの試合で、ダラス、ゴールデンステート、カナダのクラブチームの3チームと試合をしました。内容的には少しずつですが、良くなっている兆しが見えたかなーーという感じです。ダラス戦は後半の後半まで10点差前後で進みましたが、最後の最後で乱れて結局20点差くらいでの敗退です。続いて戦ったゴールデンステート戦は、一時3点差まで詰める好ゲームを展開して、最後は8点差での敗退でした。しかし、どちらの試合もプレーしていて選手の頑張り度が、いつもより感じられて“良くなっている!”という雰囲気を感じながら行けた気がします。まあ、この調子が今回限りでないことを祈るばかりです。(笑) それから、カナダのチームが意外と強いのには驚きました。というのも、カナダ代表選手の多くは、米国でプレーしているので、対戦したチームにはそんなに目立った選手はいなかったのです。しかし、戦ってみると非常にタフでシュートも確実性があり、最後まで接戦を演じたのでした。結局最後は15点差くらいで勝ったのですが、決して楽勝という試合ではありませんでした。これから、ファイナルに向かって、一試合一試合が大事な戦いになってくるので、とにかく前の試合より次の試合の内容を良くして、少しでも勝利に結びつく戦いをしていくことが重要なのです。

 今回の遠征では色々な選手と交流を持ち、車椅子の試乗や情報収集を積極的にしました。今まであまり人の車椅子に乗らせてもらうことが無かったのですが、今回の遠征では6人の選手にお願いをして車椅子に試乗しました。これが意外といい勉強になり、各選手がどのようなセッティングで、どのようなプレーをしているか?ということが理解できました。また、練習方法なども詳しく聞いたのですが、基本的に米国のD1選手は普段個人で練習を積んで、シーズン中の試合で合わせていくというスタンスらしいのです。そう言われてみると、彼らの試合を観ると、どこのチームも勝敗を気にしつつも、チームプレーの確認や新しいプレーを試しているといった光景が良く見られます。この辺も日本が吸収すべき点のように感じました。“練習のための練習”ではなく、“試合のための練習”。もっと言えば“試合で練習する”くらいに考えてプレーする感覚が、実践で通じる力を養っていくのだと感じました。ちなみに、ダラスの数選手は、いつもUTAの選手と一緒に練習をしているそうですが、ほぼ毎日30分くらいの走りこみと、スポットシュートの打ち込みに時間をかけているそうです。

 それと、余談ですがカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手が試合を見学に来ていたので、今、何をしているのか聞いてみました。彼は「今年だけバスケは休んでいる」とのことで、それ以上の多くは語ってくれませんでした。また、ベガスへは車椅子アメリカン・フットボールの大会に参加するため来ていたらしく、「優勝すると賞金もでるんだよ!」と笑っていました。一応「夏の世界選手権で北九州には来るのか?」と、質問したのですが「もちろん行くよ!」と答えてくれました。是非多くの人に、世界選手権で彼の生のプレーを観てもらいたいです。彼は若干21歳ですが、たぶん世界一の車椅子バスケットボールプレイヤーです。

 最後にチームディナーでの話です。我がストームは、いつも遠征に行くと“チームディナー”と言って、スタッフ全員で夕食会をするのです。が、今回ディナーの前に、たまたま誕生日の話題になって「俺の誕生日は6月16日なので、日本で迎えることになる」と言ったのです。すると、ディナーの途中でウエイターのお姉さんが、ウサギの耳とバケツを持ってきて神保に渡し、「今日はあなたの誕生日!みんなでバースデーソングを歌うから、これをかぶってバケツでリズムを取ってね!」と、言うのです。神保は「この人なにを言ってるのやら?」と、思いつつも既にウサギの耳を付けさせられていたのでした。少し酔っていたせいもあり、「まっ、いいか」と思って、そのまま祝ってもらいました。(笑) 後で聞いてみると、チームメイトの一人が、「俺たちはジンボの誕生日を祝ってあげられないので、今日(2月16日)に、4ヶ月早いバースデープレゼントを計画したんだ」と言うのです。なんて素晴らしい仲間たちなんだーと、彼らの心使いに感動してしまいました。しかも、普段のチームディナーだとお酒だけは自分持ちなんですが、今回は飲み代も含めて全てチーム(スポンサー)持ちとなったのでした。ラッキー!


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チームディナーでのお粗末な一コマ
       (結構酔っていたので、ヤバイ顔してます)


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同じくチームディナー
       (初めて紹介する?我がストームの面々)
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2002年02月13日

楽しいモービルの仲間たち 〜 モービルと”Mardi Gras“(お祭り)のレポート

 みなさんこんにちは。今日は「ここ変アメ人」や「ベガス遠征記」ではなく、神保が昨年夏に数ヶ月間住んでいた、モービルという街と、その仲間たちの紹介をしましょう。まず、場所から説明するとモービルはアラバマ州の最南端にあり、メキシコ湾にも面していて、アラバマでは数少ない海に面した街です。ここはアラバマ州で2番目に大きな街のため、一応一通り何でもあるし、生活の利便性は高いです。しかも、気候は暖かく海もあり、隣接してフロリダ州とミシシッピー州があるので、海水浴や観光・ギャンブル場など多彩で、住むには非常に良い所かもしれません。ただし、夏は非常に雨(スコール)が多くて日本以上に蒸し暑くなるので、そこが難点といえば難点です。

この街には、USA(University of South Alabama)という州立大学をはじめ、幾つかの大学があり結構日本人の学生さんも住んでいます。また、某大手日本企業の海外工場(事務所?)があり、その関係でも日本人の方々が住んでいるので、街の規模からすると日本人は多いように思います。まず、ここで最初に紹介をしたいのがモービルのドン?として有名な“モービリアン1号”こと「のぶさん」です。実は彼、神保と同じ車椅子の身で10年以上も前に単独で留学し、その流れで車椅子バスケもしているという神保の先輩的存在です。彼とは‘97年に、たまたま神保が全日本の一員として参加したデンバーの大会で知り合ったのですが、その後は友達として留学の件などで相談にのってもらったりしました。また、留学先が同じアラバマだったこともあり、渡米後は大会で会ったり週末を利用しては遊びにきたりして交流を深めています。それと、下の写真にモービリアン“2号”、“3号”もしっかり写っています。“2号”のヒントは「学生時代に慣らしたというマージャン狂で、時折周囲の人が驚くほどの大きなくしゃみをする人」です。(笑)みなさん写真から想像してみてください。それと、最近我がHPのカキコ板に度々登場している“3号”。彼は「身体を鍛えることに命を掛けており、プロレス好き」というのがヒントです。なんとなく想像がつくのではないでしょうか?彼は料理がとても上手で、さばの煮付けやどら焼き、アンパンまで自分で作ってしまうのです。他にもモービルには、全国のアチコチから集まってきた個性的で楽しい人たちがたくさんいて、いつ誰が訪れて来ても、みんな喜んで歓迎してくれます。


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モービルの仲間たち
     さあ、誰がモービリアン1,2,3号でしょうか?


以前、神保はバーミンガムという街に住んでいたのですが、昨年の夏にこの街へ引っ越してきて生活をしました。何故モービルに越してきたのかと言うと、この街にあるSpring Hillという大学に、ESL(留学生用の英語クラス)があり、そこに通うことを決めたからでした。ここで知り合ったのが、変なボリビア人のアレックス君でした。彼は若干19歳にも関わらず、偽の身分証明書を作って酒場に忍び込むクセモノで、寮のルームメイトだったこともあり、良く一緒に飲みに行きました。(注;米国では21歳からお酒が飲めます)  モービルの仲間は彼に対して「アナタワ オカマデスカ?」という言葉を覚えさせて、神保に向かって言わせたために、それが定着して、今ではメールの挨拶文も「Hey Okama!」と神保を“オカマ”呼ばわりしてくれます。(笑) まあ、そんな話はさておき、 昨年夏はここの大学の寮で生活をしながら、モービルの仲間たちと色々な経験をすることができました。例えばフロリダへドライブを兼ねて海水浴に行ったり、釣りに行ったり、週末は大勢でホームパーティーをしたり・・・・と。ここでの生活は約2ヶ月半という短い期間でしたが、本当に色々な経験が出来きたし、とても素晴らしい仲間がたくさんできました。


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昨年夏に大学の寮にて
     写真の右側が変なボリビア人のアレックスですービルの仲間たち


さーーて、次に紹介するのは掲示板でもモービリアン3号が触れていた、“Mardi Gras”というお祭りです。掲示板にも説明がありましたが、ニューオリンズスタイルでは、男がプラスティックで出来た色とりどりのネックレスをジャラジャラさせて、それが欲しい女子はその場でオッパイを見せるというフザケ祭りです。しかも、この“オッパイシーン”を一挙に収録したビデオまで販売されているのです。タダ撮りのオッパイビデオを販売するなんて商売上手ですよねー。少し話が脱線しましたが、最後は飲めや歌えやのお祭り騒ぎが夜通し続くらしいのです。

今回神保は、ニューオリンズの半狂乱的なお祭りは避けて、友達数人とモービルで開催された“Mardi Gras”を見学して来ました。ここでのスタイルは少し違います。残念なことにオッパイを見ることできなかったのですが、簡単に説明すると、ディズニーランドのエレクトリカル・パレードみたいなものが連日繰り返されるのです。ダウンタウンにある中心部の道路を全て封鎖して、ここに色々な乗り物に乗って仮面をつけた人たちが、例のネックレスやお菓子、ピーナッツ、フリスビーなどの品々を沿道に群がる見物人にばらまくのです。別にどれも特別欲しいと思えるような物ではないのですが、なんとなく「タダならくれー」という感じでオネダリをしてしまいます。ふと我に気が付くと、沿道のサクにはりつき、日本語で「くれーーー!」と叫んでいる自分に気が付きました(笑)。 そんなパレードが昼夜数回にわたり1週間ほど続くそうなのですが、考えてみると結構くだらないお祭りです。 そうそう、モービルの名誉のために付け加えると、現在このお祭りは、ニューオリンズがメッカのようになっていますが、「発祥の地はモービルである」と、モービリアン1号が言っておりました。ところで、沿道にばらまかれる品々の量と言ったら半端じゃないのですが、それはどこに行くのか?というと結局祭りが終れば熱も冷め、殆どはゴミ箱に行ってしまうようです。今、神保もGETしたネックレスの処分に困っているところです。だって本当に何の利用価値も無い物ばかりなんですよ。



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”Mrdi Gras” の様子
       沿道には手を上げてアピールする人々の群れが・・


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2002年02月09日

ブルーグラス・インビテーショナル in ケンタッキー 〜若き勇者たちにアッパレ!

 皆さんこんにちは。先週末は遠征でケンタッキー州のレキシントンを旅してきました。通常は飛行機での遠征が多いのですが、今回の遠征はチームバスで約6時間の旅でした。移動時に選手はバスの2席を貰い、移動中は読書をしたり、ビデオを見たりとリラックスできるので、あまり大きなストレスにはなりません。ちなみに神保は大半を寝て過ごし、あとの時間はパソコンをしました。レイクショアはチームバスを3台所有しており、遠征や大会での送迎に使えるようになっています。今回は、チームバスの後ろに車椅子や荷物用のレンタルカーゴをけん引して、ケンタッキーに乗り込みました。ちなみに米国では選手が車を運転したり、交通費を自分で払う必要はないので、この辺は日本と大きく違うところかも知れません。また、聞く所によるとテネシーのチームは選手9人とスタッフ数人のためだけに、遠征用のチームバス(リフト付き大型観光バス)を購入したらしく、ある選手が「プレステをしながら、非常に快適な移動が出来た」と誇らしげに言っていました。レイクショアのバスはスクールバスに毛が生えた程度です・・・・。羨ましいなーーー。


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レキシントンに向かう車中での一コマ。
ちょうどこの時は、友達からのe-mailに返事を書いていました。


 このブルーグラス杯は、地方のトーナメントでも一番大きな規模の大会で、毎年D1全チームとD2の上位10チームくらいが参加する大会です。ただし、D1とD2は分かれていて、D1はD1のチーム、D2はD2のチームとしか戦いません。もちろん優勝チームも2チームとなります。この大会の面白い所はトーナメント表です。通常のトーナメントは負けた時点で終わりですが、この大会は“表”と、負けても敗者用の“裏”トーナメント表が用意されているのです。したがって、負けたチームは負けたチーム同志で戦います。そのため、仮に優勝候補同士が“表“の1,2回戦で当たったとしても、負けたチームは”裏“で勝ちあがれば決勝に進める可能性もあるのです。また、”表“で勝ち上がったチームは、決勝まで3試合でたどり着くのですが、1回戦で負けたチームが”裏“で決勝に進むには、計算上7,8試合を戦う必要があるという過酷なスケジュールなのです。その代わり、色々なチームの対戦が実現するし、必ず実力のあるチームが勝ち上がれるので、どの試合も接戦が多くとてもレベルの高い試合が展開されるのです。

 我がストームの1回戦はイリノイ大学でした。今年はカナダのエース、パトリック・アンダーソン選手がいないので、勝ち目があるかなーと思ったのですが、甘かったようです。前半は3点差で折り返したのですが、彼らのタフな動きに我がオールドチームはいつものように崩れ、終ってみれば91−63で退廃しました。大学のチーム全般に言えることは、彼らは技術的な未熟さを情熱と若さ(スピードやスタミナ)でカバーしているのですが、これが結構凄くて対戦相手の選手は切れたり諦めてしまう人が少なくないのです。敗者として望んだ“裏”ではテネシーと当たったのですが、大接戦の末、残り6秒で逆転ゴールを許し2点差で敗退したのでした。まあ、この試合は全米ランク4位のテネシーを相手に良くやったのではないかと思います。通常は2回連続で負けるとそこで終るのですが、今回は順位決定戦も用意されており、3試合目にデンバーと戦いました。この試合に勝てば7,8位決定戦に進め、負ければ最下位決定という試合でしたが、20点以上離されて、あえなく3連敗となりました。この試合でちょっとしたトラブルがあり、神保は後半試合に出ませんでした。残念ですが、我がチームは最下位で大会を終えたのです。

 今年は毎試合非常に厳しい試合が続き、勝てない中でのストレスがチームの状況を悪化させています。年配の選手は相手の厳しいDFに切れて、暴言を吐いたり手を出して度々テクニカルファールを取られるし、必ずと言って良いほど、前半が良くても後半に崩れて大敗するのです。この中で神保は「どうすればチームが良くなるのか?」と言うことを考えるのですが、コーチと話したり、気合を入れたプレーでアピールしてもなかなか改善は見られません。自分自身には「良い経験をしているのだ!」と言い聞かせているのですが、正直いって車椅子バスケを始めてから、14年間で初めて味わう長く苦しい敗者の屈辱感とストレスの日々です。


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ダラス対デンバーの試合風景。
ダラス5番ウエルチ選手、42番ビーク選手、デンバー24番のナイト選手は、ともに北九州ゴールドカップの全米代表選手です。


 ところで、この大会で信じ難い事実を目の当たりにしたのです。というのも優勝をしたのは順当に全米ランク1位のミルウォーキーだったようですが(先に帰ったので決勝戦は観てない)、彼らは全米代表選手5名とカナダ代表選手2名で構成されており、そうそうたるメンバーを揃えているのです。その他でも、ダラスやテネシーなどは各国の代表選手がひしめくプロ集団で、試合を観ていても質の違いを感じました。が、しかし、このダラスやテネシーをなぎ倒し、ミルウォーキーでさえも手こずらせたチームがあるのです。それはUTA(テキサス州立大学アーリントン校)。ここには唯一全米代表の若きエース、ポール・ショルティー選手がいるのですが、その他の選手を見ると高さ的にも神保より高い選手は一人もいないし、よく見ると昨年はジュニア(18歳以下)の大会で活躍していて、「将来が楽しみだなー」なんて思っていた選手が中心となっているのです。彼らの多くはまだ18、9歳ですが、試合を観ていて感じたのは、とにかく速いしスタミナがあるし、イージーシュートは落とさないということでした。正直なところ戦略的には、あまり見えてこなかったのですが、とにかく走り続けて、ボールを追い続けているのです。点差を気にすることもなくひたすら全力でプレーしている姿は、とても気持ちが良いものです。2回戦で戦ったミルウォーキーとは、一時30点近く話されたにも関わらず、最後には一桁差まで縮める勢いを見せて、相手の選手を慌てさせました。敗者戦で当たったダラスには、スピード、スタミナでは誰もが認める世界トップクラスのスティーブ・ウエルチ選手でさえ、後半はバテたようで元気がありませんでした。結局ダラスはその他の選手も疲労からかシュートが入らなくなり、20点近く離されてUTAに完敗したのです。

 それは神保にとって信じられない光景でした。高さもなく技術もままだの選手たちが、ここまでやるとは感動に近いものがありました。これを全日本に当てはめて考えてみると、やっぱりアメリカを倒すことは決して無理なことではないと感じました。もちろん、アメリカの選手は層も厚いし上手い選手は山ほどいます。でも、UTAの選手たちはその強いチームの勝ち方を見せてくれました。もちろん日本には課題もたくさんあります。それは選手自体もそうだし、組織の部分にも当てはまります。それでも、もっと自信を持って前向きに考え、行動していけば面白くなるような気がしています。 おっと、その前に風呂屋で勝つためにどうすれば良いかを考える必要があるかも知れないなー。春に帰ったら、まずは“声だし”から始めよう!(笑) そうそう、数チームと移籍の話しもしたんだけど、今はタイムリーな次期ではないので、またそのうちに裏事情も交えて書きたいと思います。

最終結果
優  勝 ミルウォーキー・バックス
準優勝 ゴールデンステート・ウォーリアーズ
3  位 UTA

以 下  ダラス・マーベリック、イリノイ大学、ミュージックシティ・ライトニング、デンバー・ナゲッツ、シャーロット・バズ、そして我がレイクショア・ストームで、テキサスのオースティン・ワーカースが急遽辞退で不参加でした。
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