2020年12月03日

ブリージャーのススメ!

祝!11年ぶりに「体験記」更新(笑)本当はね、当時と状況が変わってSNSが盛んだし、正直やめてもよいかと。しかし、せっかく消さずに今日まできたから、「独り言」の長編という位置づけで残すことに。このJs-pageも、気づけば17年以上続けている。ただ「体験記」は気が向いた時のみ。レアなページと言うことで。


近年、世界中でブリージャーが流行っているらしい。ブリージャー(Bleisure)とは、出張の旅行(Business Travel)と、レジャー(Leisure)を合わせた言葉。俺はその呼び名を知る以前からブリージャーしてる。そして、M社を退職した今でも、そのスタイルは変わらない。相変わらず仕事の旅行に合わせてレジャーを満喫。もちろん、コロナ禍であることを理解した上での1人遊び。レジャー先の殆どはドライブか屋外で、食事もテイクアウトか店での短時間の1人メシ。自分ができるコロナ対策もしっかりね。


最近は新生活スタイルと言うけど、俺は以前から1人遊びが好きな人間だから、ある意味変化は少ない。唯一ネオン街に行かなくなったことが変化か!(笑)でも、その方が経済的にも健康的にもよろしい。


今はコロナ禍だから、いつとか日時は明確にしない(「独り言」を読むとばれる旅もある)けど、意外と1人生活&ブリージャーを楽しんでる。M社時代だと、国内遠方出張に出た時は、ドライブがてらキレイな景色を堪能しつつ写メったり。移動が休日だったりした時は、日帰り温泉によって浸かってきたりもした。もちろん、その土地の美味しいものを食べ歩くこともあった。イギリスでは週末の休みを使って、ピーターラビットの湖水地方を訪ねたり、マンチェスターやリバプールの街を訪れて散策したりしたかな。


で、コロナ禍の最近だと、まずは柏市のあけぼの山農業公園。広大な敷地には辺り一面コスモスが咲いていてキレイだった。通路にはドラえもんでお馴染み?、どこでもドアがあった(笑)また、隣の敷地には芝生のエリアがあって、多くの家族連れや老若男女が、一定の距離を取りながら日向ぼっこしたり、お弁当を食べながら花見してた。みんな楽しみ方知ってるな〜って感心しながら、俺はその光景を見て楽しんだ(笑)

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次に、仕事を兼ねて行った北海道。大倉山と小樽と与一を訪ねた。かなりの弾丸。ってか、いつも通りの弾丸旅。北海道には何度も行っているけど、大倉山も小樽も与一も初体験。秋晴れの素晴らしい天気にも恵まれて最高の時間を過ごせた。一人でドライブして、街を散策して、ごはんして、ホテルで温泉に浸かって。一番の思い出は小樽で見た鮭が川を上っていく姿!感動した。逆流を少しずつ少しずつ、時には流れに戻されながら逆のぼりしていく。1時間くらい見入ってた。俺にしては珍しく携帯で動画も撮影した。



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大倉山競技場とオリンピックミュージアム


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大倉山競技場の上から眺めた札幌市内


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小樽駅


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小樽の街中を散歩


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鮭の川上りは、生命を感じて感動した!!


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与一駅


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NHKの朝ドラ、マッサンでもお馴染みのニッカウヰスキー工場


北海道は観光スポットも豊富だし、海の幸も山の幸も美味しい。さらに、きれいな景色に出会うことができるから、本当に大好きな場所。何度行っても飽きないし、新しい発見がある。


さらに熊本城。実は北海道以上に何度も訪れている熊本。しかも、定宿は熊本城から徒歩圏内のホテルにもかかわらず、一度も熊本城を訪れたことがなかったことに気づく。テレビで、今しか見れない復興途中の熊本城特集を観て、やっぱ行くしかないと決心。福岡での仕事を絡めて、少し遠回りしつつ熊本を再訪。車いす転がして街を散策しながら熊本城に到着。車いすでも普通に入れたし、見て回れることも事前に確認済み。施設内にはノンステップバスに、エレベーターも完備されていて、全く不自由なく天守閣の間近まで行くことができた。城オタクとかじゃない俺でも、きれいに修復されていく、スケールの大きな熊本城を見てワクワクした。施設で案内をしていたスタッフの方々も親切で、とてもフレンドリーだったのが印象的。来年の5月には修復が進み、新たに公開される場所が増えるらしく「また来てな!」とお誘いを受け、必ず行くと誓ったワタシ。

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熊本城は車いすでも見学が可能


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熊本城は迫力があった!


そして、本日の最後を飾るのは東北。勝手に1人で復興支援ツアー!毎年春頃に決行していたけど、今年はコロナで実現してなかった。どうしても行きたくチャンスを伺ってたけど、ついにその時がきた。今年は仙台松島と女川に加え、初訪問となった南三陸町と陸前高田に足を延ばした。どこも復興整備が進んでいた感じだけど、陸前高田「奇跡の一本松」や、震災後に完成した東日本大震災津波伝承館では、久しぶりに津波で流される街の映像を観て胸が苦しくなった。

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仙台駅


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奇跡の一本松(陸前高田)


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松島の瑞巌寺


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瑞巌寺の紅葉


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松島の震災慰霊碑


南三陸町では震災を写真に収めてきた、カメラマン佐藤信一氏の、佐良スタジオ(写真館)を訪れて震災写真展を拝見。当日の写真には時間が表示されていたんだけど、地震後たった20分程で津波が到着し、街が飲み込まれる様子を見て驚愕だった。写真を見ながら自然と涙が出てきて止まらなかった。他のお客さんもいたから、何とか我慢しようとしたけど無理だった。苦しかった。久しぶりに悲しくて辛くて泣いた。マスクの中で鼻水を垂れ流しながら号泣‥(苦笑)

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号泣した佐良スタジオの震災写真常設展


あと、入った店では必ず何か買うと決めてたから、色んな物を買ってきた。佃煮、ダシの素、地元産レトルトカレー、油麩、お菓子、タコ飯の素、ミニクリスマスツリー、ポストカード、カレンダー、震災クリアファイル、キーホルダー、萩の月など。もちろん、飲食にもだいぶお金を使って勝手に復興支援(笑)頑張れ東北!頑張ろう日本!!


   そうだね、不要不急の外出は避けているつもり。しかし、仕事ついでの観光、ブリージャー。基本は常に1人行動だから、感染リスクは低いと思っているけど、万が一感染すれば非難は免れられない。しかし、出かけてなくても、感染すれば結果はさほど変わらにように思う。だとしたら、俺は自分の判断で決める。それにしても、本当に厄介なコロナ騒動。早く収束してくれることを祈る。その暁には、この「体験記」で海外旅行編も公開したいな〜。


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2009年04月01日

JのホンネPart3 〜完全引退?それとも・・・?

TEAM ZERO、千葉ホークス、森本文化風呂商会、Lakeshore Storm(USA)、Denver Nuggets(USA)、福岡Limitz、Lake Shiga BBC。そして、本年1月1日(移動日)から通算8チーム目となるNO-EXCUSEへ移籍をしました。「また移籍かよ?」そんな声が聞こえてきそうだけど、そう言われれば「ハイ!自分らしく生きるために行動しました!」と言うしかないよ(苦笑) 約2年半ぶりとなる体験記(コラム)のタイトルは、やっぱり“Jの本音”しかないでしょう(笑) 今回は“移籍への道Part2”の内容と合わせて、現在の本音を正直に書いてみたいと思います。まっ、過去の体験記を読み返してみても、「なかなか思い通りにはいかないものだなぁ」と実感しております。そんな中でも一番キーとなっている言葉を捜すとすれば、「タイミング」かな。そして、そのタイミングを自分なりに察知したら「迷わず動く」ことは一貫して変わらない。

まず、2004年のアテネパラを振り返ると、「あの大会では全く力を発揮できずに終わってしまった・・・」というのが今の想い。正直、全然納得がいくものでは無かったし、多くの不満や後悔を残す大会となってしまった。それでも、宮城MAXの藤本選手など若手選手の成長は著しく、漠然と「日本チームは良い方向に変わっていくんだろうなぁ」と思った。それに対して「これ以上自分の輝けるステージがイメージできない」という気持ちから日本代表を退く決意をした。まあ、あの時点では精一杯考え抜いた末の決断だったから、代表を退いたことについて後悔はないよ。その後、福岡で立ち上げた新チームでの活動では、色々な意味で挑戦の連続だったから刺激的で楽しかったぁ。

そんな中で訪れた転機。ちょうど仕事で行き詰っていた時に沸いて出た、JICA(青年海外協力隊)での国際ボランティア活動。しかも、車いすバスケットの普及とナショナルチームの強化。仕事を辞すことやLimitzを退くことに対しては大きなリスクと喪失感はあったが、自分に訪れた“タイミング”を信じて迷わずに決意。もちろん、多くの方々にご心配やご迷惑をかけることになったし、大好きなバスケをプレーヤーとしではなく指導者にまわることに対して多少の葛藤もあったが・・。しかし、マレーシアでの活動は超刺激的で、毎日が本当に勉強という感じだったし、感動の連続で自分の人生においては忘れられない時間となった。本当はもっと長い期間で活動を続けたいという思いもあったけど、やはりボランティアとしての活動に限界を感じたので帰国を決意。だって、俺も30代後半なのに無職、無収入ではヤバいっしょ?一生遊んで暮らせるだけの経済的余裕があれば別の話だけど。それに、ボランティアというのは、全ての面において、建設的ではないし継続性に乏しいという一面も思い知ったからね。

帰国後、再就職を考えるにあたり色々と悩んだことは事実。と言うのも、やっぱりバスケとかスポーツ用の車いすに関わった仕事がしたいという気持ちが強かったから。前の会社に頭を下げて戻らしてもらうか?それとも違う道を歩むのか??実は会社を辞してマレーシアに渡る前から色んな道を模索していたんだけど、そんな中で出会った松永製作所に就職を決めたのは、カッコよく言えばチャレンジ精神が旺盛な俺の運命(笑)松永製作所はスポーツ用の車いすに関しては無名の会社だったけど、社長をはじめ会社の方たちと腹を割って話し合ってみたら、みんなスポーツの分野でも一流になりたいという熱意は伝わってきたんだ。ただ、色々な事情から少しだけ出遅れていただけ。だからこそ、この会社で一流を目指したいと思ったし、みんなと一緒に歴史を築き上げていきたいと思った。入社後は、外部の人たちから「なんで松永なの?」、「松永でスポーツなんて無理でしょ?」って言われたけど、俺は自分の信念と“タイミング”を信じて決断。まあ、この決断が正しかったと確信できるように、今後の結果で示していくつもりデス。後悔なんてさらさら無いよ。

さて、ここからが問題というか実はあまり書きたくないことだけど、表題のとおり“本音”で書き続けることにしよう。仕事の関係で岐阜に引っ越したんだけど、これを機にプレーヤーとしてバスケも再出発を決意して滋賀に入部志願。ただ、すでに気づいている人も多いかと思うけど、滋賀に入部してからというもの、このJs-pageで話題に取り上げたのは最初だけだった。
本当は滋賀のみんなと日本選手権に出場したいと考えていたけど、いざ会社で仕事を始めると想像以上に忙しい毎日で練習に行くこともままならない状況に陥ってしまった。また、チームのみんなも優しいというか?今までの歴史を継承しているというか??あまり勝負に拘ったり「絶対全国大会に行く!」というような強い意志を感じる雰囲気ではなかった・・・。結局、俺自身も全くチームに貢献できないまま2年という月日が流れてしまった。後半は「やっぱり引退したままの方が良かったの?」って、自問自答の日々。俺にとっては珍しく辛く苦しいバスケ道の時間になってしまったし、チームのみんなにも申し訳なかったと思っている。

そんなある時期、大きな転機が訪れた!

仕事で全国を回りながら、そろそろ営業活動を強化しようと考えていた時に、関東でマックスプレジャー(松永製作所のスポーツブランド名)のプチブームが起こっているという噂を聞きつけたのである。で、関東を中心に回ってみると色んなビジネスプランとチャンスが頭を駆け巡った。そこで迷わず即決したのが「おら東京さ行くだ!」さっそく会社に戻って上司に相談すると、「お前に任せる」との言葉をいただき、東京中心での営業活動方針が決まったのである。そんな2008年の夏、会社に無理を言って休暇を貰い、バスケ仲間と北京パラリンピックの観戦ツアーに出かけた時のこと、親友の晋平やNO-EXCUSEの面々とも行動を一緒にする時間を得た。全日本チームの活躍や日本のトップクラスで活動する面々との語り合いの中で、「やっぱりバスケがしたい!」という思いが湧き上がってきた。それから後の話は書くこともないと思うんだけど、トントン拍子でNO-EXに入部する話が進んだというわけ。この時も“タイミングだ!”と直感したもの。そんなこんなで、2009年1月から晴れてNO-EXのメンバーとしてバスケットを再開するに至っている訳です。

我ながら、本当に自分勝手な人生を歩んでいると思う。でも、常に自己責任を感じながら自分の人生を充実させるために、一生懸命考え、悩み、苦しみを感じながら決断をしている。つもり?(苦笑) 昔読んだ中谷さんの本の一説に「人生は決断の分だけ楽しみがある」というのがあった。 俺もまさにその通りだと確信しているからこそ、何かを失うことも恐れずに決断を楽しんでいるような気がする。きっと、たくさんの人に迷惑を掛けているかも知れない。きっと、たくさんの人に否定されるかも知れない。でも、きっとたくさんの人にパワーを分け合えていると信じて、これからも突っ走っていこうと思う。

今日の最後。“NO-EXCUSE”とは“言い訳をしない”という意味であるが、ふと自分の言動を振り返ってみると結構言い訳ばかりしている気がする。自分らしく生きて後悔を少なめにする人生がモットーなんだけど、NO-EXCUSEも意識して自分に取り入れていきたいね。もし、EXCUSEしている神保を見かけたら「NO-EXCUSE!」と忠告して貰えたら幸いです。


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2006年10月09日

マレー鉄道の旅〜ケランタン州を一人旅

 Jはテレビ朝日の隠れた人気番組?「世界の車窓から」ビデオ全集を持っている。これは、親しい人なら知っていること。確か、以前「独り言」でも書いたかな。取り立てて鉄道マニアと言うことではないし、必ず番組を観るというわけでも無いけど、あの数分の映像に心が癒されるのである。また、家でビデオを観るのは自分がリラックスしたい時。しかも、今まで一度として最後まで観たことがない。何故かと言えば、観ているうちに(ビデオは60分)癒されて眠ってしまうから(笑)  そして、いつもテレビと同じような旅がしたいと思いながら、今までなかなか機会を作れずにいた。そんな中、たまたま読んだマレーシアの日本人向け情報誌を元に、とうとう「世界の車窓から」を体験することができた。 

 ある日、ひょんな事から3連休が舞い込んできた。ちょうど運悪く?バスケで悩んでいる時だったので、気分的には楽しめる感じでもなかったけど、滅多に無い機会と思って当日決心し旅に出た。⇒9月17日の「独り言」参照。 前日は飲み過ぎで二日酔い状態だったけど、バッグに着換えを詰めて車椅子でアンパンパーク駅まで転がし、LRTプトラ線でKLセントラル駅に。ここはマレー鉄道の中心駅で、各方面への発着駅となっている。情報誌のとおり、ケランタン州コタバル方面行きは18:15発。しかし、乗車率は低いという情報を信じて予約をせずに行くと、寝台席は満席で取る事ができなかった。初の寝台列車を楽しみにしてのだが・・・。やはり事前に予約する方が賢い(苦) と言うことで、購入できたのは一般席でMR15(約450円)。情報誌によると一般席でもMR39だったので、一応確認してみると“障害者割引料金”だとか。そんなのあったのかぁと、意外な事実を知る。それにしても、14時間の旅が450円とは安い。

 ホームで待つこと約1時間。急行エクスプレス・ワウ号がホームに入ってきた。その時の感動とワクワク感は何とも言えなかった。出発まで10分くらいあったので、取れなかった寝台席や食堂室に入って写真を撮影。もうこの辺りからは、そうとう興奮してたな(笑)列車は少し古めだけど日本と変らない感じで、まずまず快適だった。定刻どおり発車した列車は、目的地とは逆方向であるシンガポール方面に向けて走り始める。何と言っても、たった500キロ強の道のりを14時間近くかくて走るのだから、そうとうゆっくり遠回りすることは間違いない。

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KLセントラル駅(地下ホーム)で、列車を待つ間に案内表示板を撮影

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本当はこの場所で快適に旅するはずだった寝台席・・

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マレーシアの夕日を車窓からパチリ!これがたまらなく良かった!

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普通席列車内の様子。車掌は無愛想だが意外と親切だった



 最初のうちは感動に包まれて楽しかったけど、途中からは夜も更けて真っ暗になってしまい爆睡。ガッガンと、列車が止まって気が付くと、折返し地点のゲマス駅に到着していた。ここからケランタン州に向けて北上していくらしい。ようやく3分の1程度走ったことになる。ここで、携帯電話を確認するとシャリファからSMS(ショートメール)が入っていた。 シャリファは数少ないマレーシア人女性の友達。 彼女はケランタン州出身のパワーリフティング選手で、今は旦那さんと子供を置いてバンギでフェスの強化合宿に入っている。ちょうど同じ週末に自宅へ帰っているらしく「遊びに来ない?」との誘いを受けた。急遽下車駅を変更して、シャリファの家を訪ねることに。

 お尻の皮が剥けるくらいシンドくなってきた頃、夜が明けて景色が見えるようになってきた。車窓からの景色を楽しんだのだが、舗装された道は少ないし、牛がたくさん放牧されているしと、随分様が変ったことに気付く。そんなこんこんなでシャリファの住むランタン・パンジャンから一番近い、パシル・マス駅に到着したのは午前8時。慌てて車椅子を担いで下車。当然バリアフリーとは程遠い電車と駅のホーム間隔だったけど、見知らぬ人たちみんなが助けてくれた。とても親切なんだなー、これが。

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パシル・マス駅で14時間も乗ってきた列車を見送る


 駅から電話をすると、シャリファの弟が車で迎えに来てくれるらしい。しかし、仕事の関係もあって1時間以上かるというので、Jは駅の周辺を散策して待つことにした。露店や市場を散策しているうちにお腹が減ってきたので、市場の食堂?で朝食。頼んだのはロティチャナイというナンに似ているパン風の食べ物と、お気に入りのコピ・オ・アイス(アイスコーヒー)両方合わせてMR1.5(約50円)也 


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露店の様子だけど、朝から活気がって楽しかった


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少し離れたところにあった市場の中にある鶏肉屋


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市場の食堂にて朝食タイム



 ところで、車椅子って目立つ目立つ!! 誰も彼もがJに視線を送っていることが分かった。しかも、みんな凄い勢いで話しかけて来る。最初はマレー語で・・・。でも意味が分からず戸惑っていると、片言の英語で「どっから来た?」、「それ(車椅子)幾らするんだ?」など質問攻め。久しぶりに、あの視線を感じた。20年くらい前の自分を鮮明に思い出したね(笑) 

 しばらくすると、ある若い男性に声を掛けられた。「Are you Jimbo?」と。やはり車椅子は目立つらしい(笑) 電話連絡もなしに出会えたのである。さっそく彼の車(1986年式のホンダ車)でシャリファ宅へ向かう。シャリファの家はタイ国境のすぐそば(歩いて行ける距離)だった。到着すると家族みんなでJを迎えてくれた。シャリファの旦那さんは、全く英語を話さない人なんだけど、すごく親切な人柄がにじみ出ていた。また、みんなから“客をもてなそう”という雰囲気が伝わってきて嬉しかった。本当はもう少し居たかったんだけど、旅は始まったばかりなので早々にコタバルへと向かった。


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シャリファ宅で昼食(右からJ、旦那さん、シャリファ、シャリファの友人)


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シャリファの息子は生の人参を、おやつ代わりにかじっていた!可愛いっしょ?



 コタバルへ行くにあたり、シャリファの友人であるタクシードライバーを呼んでもらった。午後の3時から半日観光をしつつコタバルを目指したんだけど、この時間も興味深かった。 と言うのも、ケランタン州はイスラム色が強い場所にも関わらず、タイ国境に近いため仏教寺院が多かったこと。また、貧困街のような場所も多くて、途上国の一面を垣間見れたのも勉強になった。タクシーのドライバーも、仕事中のクセに「お祈りの時間だから・・・」と、知人宅に寄り道する場面もあった(笑)


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トゥンパにある仏教寺院の寝釈迦(東南アジアで最大級とか)


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知人宅にて水で身を清め、お祈りする前のドライバーさん(右が居宅で左がお祈り棟)



 半日観光の末にコタバルに到着。午後の3時から6時過ぎまでチャーターしたタクシー料金も、シャリファの友人という事で「幾らでもいいよ」と。困ったJは何度も聞くんだけど答えは同じなので、「MR50でいい?」って聞くとあっさりOK。通常なら倍くらい払ってもおかしくない時間だった。ラッキー。

 翌日は朝から晩まで8時間近く、殆ど車椅子で街中を散策したんだけど、お目当ての目的地は一つ。それは・・・・、第二次世界大戦の記念館。コタバルって日本軍がマレーシアを侵略す際に、足がかりとして初上陸した場所なんだって。だから、日本とは深い関係がある土地。実は、Jがコタバルに行く事を決めたのも、この記念館に行きたかったから。朝イチで訪れた記念館で、Jは心臓を掴まれるような苦しさを味わった。数々の写真や説明があったんだけど、最後は戦犯である日本の軍人たちが絞首刑になる瞬間の写真。しかも、記念館を出たあと、街で日本語の達者なマレーシア人の老父に出会い、「戦争中は日本軍のお陰で大変辛く苦しい思いをした・・・」と聞かされる。とても複雑な気持ちになった。二度と犯してはいけない過ちだと強く思ったよ。


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第二次世界大戦記念館の外観(内部は撮影禁止)


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外に展示してあった旧日本軍のボート。“ケランタン上陸の際に使われた”とあった



 気を取り直して?後半も車椅子でコタバルの街を散策したんだけど、多分Jは街の有名人になったと思う(笑) だって、街中を車椅子で動き回る人なんて過去に居なかったのでは??と思うくらい視線を感じたから。しかも、階段ばかりの不便な街だけど、地べたに座って車椅子を担いで動き回ったから、かなりたくさんの人に助けてもらったよ。この日も相当数の人に声を掛けられたし、気が付けば、あっという間に夜の7時を過ぎて帰る時間に。


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コタバルで唯一タクシーを使って行ったパンタイ・チンタ・ベラヒビーチ


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セントラルマーケットは活気があった!


 KLへの帰路は夜行バスをチョイス。夜9時にコタバル郊外のターミナルを出発し、約9時間のドライブだったけど、これは2度目なので慣れたもの。バスは席も広いしリ、クライニング幅も大きいので快適だった。それにしても、深夜の1時過ぎに休憩が入るのは良いけど、トイレ休憩だけかと思いきや、食事タイムでJ以外は全員下車。多分40分くらい停車していたと思う。なにも夜中の1時に食事をしなくたって!この国の人は、よほど食べる事が好きらしい(笑)


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コタバル郊外にあるバスターミナル・ランガには車椅子で30分転がして行った


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バスの中から休憩所の食堂を写す(バスの時計は1時22分を指している)


 こんな感じで1泊4日のケランタン旅行は幕を閉じた。この旅で心掛けたのは、なるべく自分の足(車椅子)で回り、少しでも地元民と近い視線で細かい所まで見て回ること。自動車で通り過ぎたら見えない部分や、その土地の匂いを充分感じることが出来たと思う。それと、旅の間は「我ながら面白い経験をたくさんしてるなぁ」と、自分に浸ったね(笑)決してお金では買えない“貴重な経験“が増えていることを自負してる。また、それが自信となり、次へのステップを後押しする力となる。このまま行けるところまで行くつもり。自分らしく生きるために・・・、人生に”後悔“という2文字を残さないために。 よし、かっこ良く締めくくれた!かな?(笑)

 最後に訪ねた主な観光スポットと収支を書きに示そう。

<訪問場所>

コタバル
1)第二次世界大戦記念館
2)ムルデカ広場(マレーシアの独立記念公園)
3)イスラム博物館(イスラム教を伝える碑文や写真を展示)
4)ケランタン州立博物館(州の歴史や工芸品を多数展示)
5)ハンディクラフト博物館(自分に工芸品バティックの土産を買った)
6)パンタイ・チンタ・ベラヒビーチ(夜や週末は賑わうらしいが、平日昼間は閑散)
7)セントラルマーケット(3階建てだが階段なので1階の食料品売り場のみ見学)
8)ナイトマーケット(夕方になると何処からとなく店が出始めてマーケットになる)

トゥンパ
1)ワット・ポティビハン(写真を掲載した寝釈迦がある仏教寺院)
2)ワット・マチラン(大きな座仏像のある仏教寺院)
3)ワット・スワンキリ(ドラゴン像がある仏教寺院)

ランタン・パンジャン
1)タイとの国境にある通関(車でも歩いてでも国境越えは出来るらしい)
2)国境付近のマーケット(タイからの車が多く、品物豊富で安い×2)

<費用内訳>
電車賃
アンパンパーク〜KLセントラル MR2
KLセントラル〜パシル・マス  MR15
電車内の夕食 ミゴレン(焼きそば)&水 MR5
朝食 ロティチャナイ&アイスコーヒー  MR2
タクシー代 3時間強の貸切り      MR50
宿泊代 ホテル ペルダナ1泊      MR136
夕食 中華食堂にてビール2本含      MR30
昼食 マレー系食堂にて          MR6
夕食 フードコートにてマレー食      MR6
入場料 各種記念館等          MR3
絵葉書代 趣味の絵葉書を購入       MR4
切手代 自分と友人に絵葉書を送る    MR3
タクシー代 コタバル街〜ビーチ往復   MR30
スナック代 バス用の水とスナック    MR4
バス代 ランガ〜KLのバスターミナル   MR30
タクシー代 KLバスターミナル〜自宅   MR10
土産代 久しぶりに母と自分へ土産購入  MR100
雑費 乾電池、水、ガム等         MR20 
合計 MR456(約14,000円也) 


−おわり−

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2006年09月12日

タイ遠征記 〜一人の旅行者として、タイの魅力にハマッた!?

 さーて、ここからは堅い話を抜きで、初めて訪れたタイを自分なりにレポート。数年前、タイ航空の宣伝で石田一成が出演していたCMを覚えているだろうか? 自身の記憶も定かではないけど、確か「若いうちにタイへ行け!」みたいな宣伝文句だったと思う。あのCMを見て、当時無性にタイへ行きたくなったことを思い出す。 初めて旅したタイは想像どおり“本物のアジア“だった。ところで、最初に書かなければいけないのは、今回の対旅行はあくまでもバスケがメインで、殆ど観光地にも行っていないし、訪れた場所もパタヤのみという狭い範囲。だから、「Jが感じた、ほんの一握りのタイ」ってこと。

 まず、ジャパンマネーをかざす訳ではないけど、東南アジアの物価の安さには驚きを隠せない。これは、良いとか悪いとか別にして、同じ物を買うのにこれだけの価格差が在る事自体に経済の不思議を感じる。タイの通過はバーツだけど、TB1は約3円。良くJが比較するのに出すのがビールやコーラの値段。ちなみに500mペットのコーラが、日本では通常150円でしょう? マレーシアではRM1,8(約60円)で、タイに至ってはTB10(約30円)。ちなみに缶ビールは日本が220円。マレーシアRM6(約180円)のタイがTB20(約60円)。マレーシアのビールが意外と高いのは、国策でアルコールに高額の税金が掛かっているため。ということで、タイの物価は日本の4分の1か5分の1という感覚。


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初日にコンビニで買った商品だけど、ビール12本とお菓子等を買ってもTB400(約1,200円)



 J達が宿泊したのは、障害者の職業訓練施設に併設された宿泊施設。マレーシアで言うところのPLPP、日本で言うところの国リハのようなところかな。しかし、この施設はNGOが運営する民間の職業訓練校で、施設内には訓練生の訓練棟、宿泊棟のほか、講師の居住棟、ホテルのように貸し出している宿泊棟が完備されている。しかも、マレーシアと違って活気がり、障害者の行動範囲も広く、自ら車を運転する人も少なくなかった。また、街中にあるためスーパーや商店街にも近く、車椅子で買い物もできるから近隣の施設もスロープが設置されている。何だか日本に近いと言うか、明るくて自由な感じが漂っている。タイの方が遅れていると認識していたのに、障害者を取り巻く環境は断然タイの方が進んでいるように感じた。


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職業訓練施設の風景で、道路を挟んで両側に幾つもの建物(施設)がある



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宿泊施設の部屋は広くて車椅子対応だし、普通のホテルと変らない快適さ



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バスルームも広いし手摺があり使い易くなっている。ちなみにJ部屋のバスはシャワーのみだった



 大会会場となったのは、パタヤ郊外の近代的なインドア陸上競技場。設備的には素晴らしいのかも知れないけど、所詮陸上競技場と言うことで、車椅子バスケの会場としては厳しいものがあった。 例えば立体のトラックが設置されているので、トラックの内側にあるコートに行き来するのは、狭い仮設スロープと通路でいつも渋滞状態。最大の欠点はコートの床が体育館仕様になっておらず、人工芝を剥がされた床はコンクリートの打ちっぱなし。きれいな平面じゃないし、砂ぼこりが酷くて手もタイヤも真っ黒になる始末。屋外のコートでプレーしている感じだった。(苦笑) それでも、条件はみな同じということでプレーしたけど、国際大会というには少しお粗末だったかな。ただし、運営面では途上国にも関わらず組織化されていて、競技車両運搬用のトラックとバスケが一対で送迎をしてくれたし、毎回弁当ではあるものの食事の手配もしっかりしてた。 試合の予定もボチボチ時間どおり進行していたと思う。一つだけ不満だったのは、送迎バスの時間が遅れることで、毎回30分から1時間遅れでの移動となり、かなり早い時間から暑い外で待ちぼうけをくった。これには参ったよ。


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競技車運搬用の二階建て仕様?トラックはとても重宝した



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大会会場外観は近代的で素晴らしいのだけど、バスケの会場ではないよなー・・・・



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会場室内での試合風景で、写真はタイ戦だと思います



そうそう、「独り言」でも書いたんだけど、この大会で先輩に再会した。この方は坂田さんと言って、Jが車椅子バスケを始めた当時に東京のチームでバリバリ活躍されていた方。元日本代表の経験もある大先輩。現在も東京のチームでコーチをし、日本のジュニア選手育成にも関わっている。今回は縁あってラオスで車椅子バスケの指導されたらしく、この時も教え子の活躍を見届けるためにタイに来て声援を送っていた。こんな場所で再会できるなんて思ってもみなかったから、とても驚いたし嬉しかった。ほかにもミスターレディーの話やビーチの話、タイの庶民生活についてなどなど、書きたい事や新たな発見もたくさんあるんだけど、書ききれないからアルバム形式に写真を掲載して一言コメントを入れたいと思う。



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坂田さんと記念撮影(左が坂田さんで右の方はラオスでNGOの活動をしている岡山さん)


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大会会場で見る事ができたタイの伝統舞踊だけど、こちらは本物の美女が大勢!


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同会場で行われた車椅子フェンシングの試合も初めてのことで興味深々で見入った


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ミスターレディーの華麗なるショーは素晴らしかった(タイではレディボーイと言うらしい)


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この方が男性(レディボーイ)なんて信じられますか!?それにしても、Jの顔つきヤラしいよね?(笑)


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フェアウェルパーティーで日本女子チームの面々と記念撮影



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最終日の観光で行ったテーマパークにて、ミルクで誤魔化して?トラの赤ちゃんと記念撮影


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同じく最終日に行ったパタヤビーチは砂浜の奥行きが狭く、車椅子で利用し易そうだった



 最後に、タイ旅行で一番の感動。上手く説明したり表現できないのだけど、タイに漂う“アジアの活気”と“神秘的な魅力”かな。実はこの部分が一番伝えたいことなんだけど難しい。たくさん写真も撮ったけど、写真で表現できる感じでもない。まっ、一言で言えば「タイに行こう!」かな(笑) 街はニセモノっぽいものが溢れ、貧しさを垣間見る場面も多々あった。薄汚れた街で空気が臭かったりもするし、多くの社会問題も抱えている国だけど、とても活気があってワクワクする国。きっと綺麗な女性が多いのも魅力のひとつ?(笑) 初めてのタイ旅行はとてもエキサイティングだったし、メチャクチャ大好きな国になった。きっと近い将来にプライベートで行くことになると思う。今度は遺跡巡りもしたいし、もっともっとタイの魅力を見つけてきたいと思う。まだ、タイに行かれ他ことがない人は是非どうぞ!



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マレーシア・マレーシア 〜マレーシアに思うこと、素直に書きます

<マレーシアの障害者スポーツ環境を簡単に紹介>

 タイ遠征についてのレポートにしようと思ったんだけど、初めて訪れたタイは話題が豊富で長くなりそうだから、今回は完全二部構成にしてみました。まず一部では、PLPP(国立の障害者職業訓練校)を中心とした障害者の環境を少し紹介した上で、タイ遠征までのことを書いた真剣&本業バスケ編。そして、二部ではバスケ以外の話しや、イチ旅行者として感じたことを率直にレポート。しかも、今回は二号同日更新というスペシャルバージョン!?(笑) まずは、本業編から読んでおくれ。


 以前から「独り言」等には書いている事なんだけど、マレーシアという国(隣国の途上国も似たり寄ったりらしいが)は、日本人には理解しがたい事がある。否定をする気は毛頭ないが・・。その代表は国民の気質かな。マレーシアで出合った殆どの日本人が口にする言葉、「勤勉さに欠ける」、「覚えが悪い」、「怠けグセがある」、」「寄付や援助に慣れ過ぎている」など。事実これらは誰でも感じること。(もちろん、全ての人がそうとは限らないことも付け加えたい) ただ、Jとしては“郷に入り手は郷に従え”って感じで、その環境(特徴)は受け止めたいと考えている。がっ、ナショナルチームの選手を預かる身としては少し違う。

 マレーシアでは特に福祉の分野が遅れている事もあり、障害者の就労や自立はまだまだの状況。これは、ちょうど20年前にJが悩んでいた人生の苦しみに似ている。そんな中で、バンギにあるPLPPは、少しでも希望を持っている障害者の駆け込み寺的な存在かな。しかし、現実には技術や知識を身につける職業訓練も、各教室を覗いてみると内容や充実度は薄いように思う。生徒達も前向きに訓練を受けているというより、義務感で教室に居るように見える。実際に就職率も低いらしいし、就職してもすぐに辞めてしまう(辞めさせられてしまう?)人も少なくないとか。残念ながら、この状況から夢や希望という言葉は、あまり見えてこない・・・。ちなみに、訓練所に入っている人の待遇は、全寮制で食費と住居費は一切掛からない。また、月に訓練手当てとしてRM150(約4,500円)がもらえる。現状では高価な自動車やバイクを持てるような人も少ないので、周囲に何も無い田舎町の施設では、四六時中ボーっとしている人が殆ど。この活気の無い状況の中に居るだけでも結構キツイ(苦)

 そんな中で、バスケットの選手達は少し違う。練習時間に遅れてくる選手も殆どおらず、集合時間前には準備をして各自でウォーミングアップを開始している。しかも、結構厳しい練習を与えても、“コーチが見ていれば”頑張る(笑) ただし、誰も見ていないと半数くらいの選手は、手抜きをしたり勝手な練習を始めてしまう。まあ、そこがこの国の特徴というか国民性と言うか。 例えば、時間があっても一人で自主練習に励むまでの選手は少ない。"勝ちたい!“とか”上手くなりたい!“という気持ちも、さほど伝わってこないの。日本人の勤勉さや意識の高さに比べれば差は歴然。(こちらも、全ての人ってことじゃなく総体的にね) だから、「マレーシアは途上国なんだよ」と言う人もいるが、確かに無関係ではない気がする。

 Jは前回の「体験記」でも書いたけど、バスケの指導以外に大きな課題を感じている。それは上記で書いたような“意識”問題。根底にあるのは国民性であろうがなかろうが、障害者であろうがなかろうが、是非彼らに変って欲しいと願っている。それは、障害者と言うお荷物(本心で書いてる訳じゃない)が、健常者と言われる人たちと同じように生きる道を勝ち得るために、まず彼ら自身が強い意思を持たなければ始まらないから。幸い、車椅子バスケの選手達は勢いがあるし、将来に対する夢や希望も持っている人が多い。また、ほかの人よりは海外に行ったりする機会も得ており、いわばリーダー的存在。そして、ナショナルチームの一員として国旗を背負う国の代表。そんな彼らに期待しないで誰に期待できると言うのか。 Jは自分自身の経験を踏まえ、彼らの可能性を感じずにはいられない。だからこそ、「やろうぜ!」って言いたいし、この国に戻ってきた。この国の障害者環境の一端は、彼らに掛かっていると言っても過言ではない。

 タイ遠征を前日に控えた晩、PLPPでは壮行会を兼ねたイベントがあった。この際、Jが驚いたことにお金が支給されたこと。日本でも国際大会などでは会社や友人から、”寸志“(厚志)という形で、お祝いをいただく事はある。しかし、今回はMSN(マレーシアのスポーツ協会)と言う行政機関。しかも、ひと月の訓練手当てがRM150というのに、一週間の国際大会に向けた準備資金はRM300と倍額。更に8月より代表選手には、毎月RM500の強化費が支給されることになった。また、仕事をしている代表選手は、フェスピックが終るまで仕事を休んで良いことになっており、その休業補償も全てMSNが補填してくれる。まだある、7月PLPP内に強化選手専用の食堂がオープンし、MSNより一日一人当りRM25の食費も出ており、選手は他の訓練生とは別扱いされている。しかも夜食付きだし、従来の食堂より格段に美味い!! と言うことで、PLPPにいる選手は訓練手当てを含めると、月にRM1,400程度の支給を受ける事になる。これって、場合によれば普通に働いている人よりも多い金額。もっと言えば、フェスピックで金メダルを取れば、車や家が買えるほどの賞金が出ると言う。マジかよ!?日本なんてそんなの何もないし、いつも自費で活動してたのに・・・。


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タイ遠征前日のイベントで準備金の進呈式。各自サインをして現金を受け取っている



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強化選手専用の食堂で、この時は夜食タイムでお茶をしている選手が多かった



 確かに、マレーシアに於ける障害者環境が整っていないから、このような厚遇支援が必要なのかも知れない。まあ、健常者の場合でも同様の厚遇支援はあるらしいが。それにしても、もっと有効なお金の使い方はないのか?と、政策自体の在り方を疑ってしまう。それでも、このことで選手がプロ意識を持ってくれれば納得したいが、「障害者だから・・」とか「それが選手の特権」くらいにしか思っていない事がムカツク。この国でこれだけの厚遇を受けられる立場を理解して欲しい。彼らが高い意識を持って成長すれば、必ず障害者に対する見方も変るだろうし、今の環境を変えることが出来るとも思う。彼らはそのチャンスを得ている訳だし、この国で先駆者になる可能性を秘めているのだから・・・。


<タイ遠征での経験を踏まえて思うこと>

 正直言えば、タイでの結果は想像していた通りだった。マレーシアは、中心選手達で構成したAチームと、新人や補欠選手+Jを含めたBチームのエントリー。その中でAチームに期待していた事は、JがプレーすることになったBチームの戦いぶりを見せ、彼らに何かを感じてもらうこと。例えば、声を出し続ける様。強い意思で試合に臨む様。選手個々の実力は劣っていても、リーダーシップを取る選手がチームをまとめれば結束出来ると言う事。更には、彼らに不足している諦めない気持ちを持たせる事。しかし、Jの期待はあっさり裏切られた(苦笑)

 タイの2軍的存在であるパタヤチームとの対戦で、期待と幻滅の両方を痛感した。実はBチームが対戦した時、Jはコート上で選手に指示を与えながらパスを回し、なるべく他の選手にシュートを打たせながら戦っていた。それでも、全員良く声が出ていたし、ミスっても上手く盛上げながら戦っていた。そんな試合中のハーフタイム、みんながJに質問してきた。「何でコーチはシュートを打たないの?」と。逆にJが質問した。「俺がたくさん得点して勝ったら嬉しいか?」と。ほぼ全員の選手が「YES!」と迷いもなく答えてきた。バカヤロウ・・・。Jは「お前らの試合だし、お前らが活躍して勝てよ!」って渇を入れた。その気持ちがBチームの選手には届いたのかな?彼らは後半で素晴らしい集中力と大活躍を見せ、結局終ってみれば3点差での敗退。もちろん、Jが最初から飛ばしていれば勝てた試合だけど、“意識”の部分では納得のいく内容だった。また、敗退はしたものの、とても大きな充実感を得たし、若手数選手の秘めた可能性を実感する事ができた。

 翌日Aチームが準決勝でパタヤチームと対戦した。彼らは「Bチームが3点差で負けたんだから、俺達なら勝てる!」と、気合は充分だった。パタヤに勝てば決勝に進める訳だし、Jの感覚でも実力的には互角かマレーシアAの方が上。しかし、結果はダブルスコアでの敗退。でも、最初からこの結果は見えていた気がする。タイは強いという呪縛から逃れられない選手は、最初からミスを連発して意気消沈ムード。しかも、普段練習していることは全て忘れ去られ、ただ試合しているというだけのお粗末な内容。何度かタイムを取って指示を出したけど、選手達は舞い上がっており聞く耳を持たない。Jはコーチとしてこの状況を変えるだけの技量はなかった。彼らは3位決定戦でもタイのチームに大敗し、少しだけ落ち込んでいるように見えた(苦) もちろん、コーチとして指導している自分自身の無力さや責任も感じていることは言うまでもない・・・。

 大会終了後、Jはアンさんに伝えた「このチームをフェスピックまでに大きく変えることは難しいけど、長い目で地道に基礎から指導して行きます」と。さらに、将来を考えてチームに悪い影響を与えている中心選手を切る提案も・・・。まあ、最終的には本当に選手を切ることは出来なかったけどね(苦笑) しかし、そのあと先輩からのアドバイスもあったことから、今は愛情を持ちつつも超真剣に、しかし選手を潰す勢いで指導している。最近では選手達にキツイ走り込みを今まで以上に与えているけど、特にペナルティを与える時は、Jも同じメニューをこなしている。そして、いつも彼らに言う。「コーチのミスはコーチの責任、選手のミスはコーチを含む全員の責任」と。彼らの視線に立ち、やって見せ、示していくことで、彼らの心を動かせたら・・と思う。

 10月からは、現在オートらリアで活動しているJの先輩、岩野さんがマレーシアに来て一緒に指導をしてくれることになった。そうしたら、岩野さんにヘッドコーチをお任せして、Jはアシスタントとしてコートの中で、より選手と近い場所から対話してこうと思う。また、現在パソコンで評価シートを作成しており、選手のプレーを多方面から分析&評価し、実際数字に表して見せていくつもり。ナショナルチームの選手だから、逃げ道は与えたくないし、言い訳もさせたくない! きっと選手達を奮い立たせて見せる! そう信じて、彼らと真剣勝負する!

<お知らせ>
 現在オーストラリアで活躍中の岩野さんが、TBS系?の「情熱大陸」というテレビに出演するそうです。 OAは9月24日と聞いていますので、是非皆さんにも観て欲しい。それから、JのためにDVDを撮ってくれる人も募集しています。お礼にマレーシアから絵葉書くらいは送りますよ!(笑)




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2006年08月15日

マレーシアに来ました 〜Jが再びマレーシアに来た理由(ワケ)

久しぶりの体験記。何と言い訳してよいのか?ちょっとサボり過ぎ??(苦笑) 気が付けば「体験記」は、一年以上更新してなかった。でも、マレーシア生活では時間に余裕が出来そうなので、目標は月イチ更新で書いていきたいと思います。更新できてない時は、是非突っ込みを入れてもらえると緊張感が持てて嬉しい(笑)

さて本題。4月JICAの活動で一ケ月間だけマレーシアを訪れたことは、js−pageを訪れてくれる人は知ってくれてるはず。それでは、どのような経緯で参加に至ったのか?から説明したい。実はJICAがボランティアで車椅子バスケのコーチを探していることは、結構前から知ってたこと。でも、既に数年前から太陽の家(大分県にある福祉団体)関係の方々がボラ活動をしていることも知っていたし、「あえてJが行かなくても誰かいるだろう・・」と、最初は気にも留めなかった。

ある時、日本の障害者スポーツ協会に勤める友人から連絡を貰い、「マレーシアのコーチ要請があるが希望者がいないため、行く気はないか?」と、直接打診を受けた。もちろん、チャレンジ大好きのJが興味を示さないはずがない(笑)この時点で行く気マンマンだったのだが、実は裏話があった。本来JICAは長期のボラを募集したい意向があったのだが、何せ障害者のボランティア派遣経験がなかったため、「とりあえずひと月の体験」をして、長期に耐えうる場合は再度派遣したいという話しだった。で、最初はひと月だけ行くことになったのだけど、Jの中では最初から長期の方が仕事上の都合もいいのに・・・って、“行く前は”思った。

マレーシアに来てからの事は、結構なペースで「独り言」にも書いてきたから、細かいことの紹介は省かせてもらうんだけど、Jにとってはひと月のマレーシア生活が色んな事を考える時間になった。生まれて初めて訪れた発展途上国(正確には中進国)は、想像してなかった事がたくさん。最初に飛行で来た時、空から見たマレーシアは近代的な建物も多かったし「意外と進んでる!」って思ったんだけど、実際暮し始めてみると色んな意味で様々な壁を感じたし、遅れているとしか言いようのない現実も多く知った。 

正直言えば、バスケットの指導は二の次かも。こんなこと書いて誤解を受けたらマズイね?(笑) もちろん、年末に開催されるフェスピックに向けて情熱を注いでいくつもりだし、マレーシアに車椅子バスケの知識を伝え残していきたいという思いはある。それは、JICAが派遣してくれた一番の目的でもあるだろう。でもそれとは別に、ひと月の間に強い使命感が芽生えたんだ。多分それが無ければ再びマレーシアに戻ろうなんて考えなかったと思う。だって、マレーシアは実際に住んでみたら、決してエキサイティングな場所ではなかったし、日本にいる方がたくさん楽しみを見つけられると思うから。 

では、何がJを戻らせたのか?? それは、20年前にJ自らが経験した苦しみに似ている状況があったから。 PLPP(Jが指導している職業訓練校)に入所している若い連中は、潜在的に凄いパワーを持っているにも関わらず、そのパワーを向ける先が無い。きっと仕事をさせれば、人一倍頑張るに違いない。なのに、彼らは仕事も持てず、移動手段に欠かせない車も持てず、ただ何気なくセンターで隔離されたかのように暮している。しかも、障害者は世間のお荷物的存在で、障害者が健常者と呼ばれる人と結婚するというだけでニュースになる!Jも20年前の日本で彼らと同じような悩みを持ち(多少理由は違うけど)同じように家に閉じこもり、車椅子に優しくない街に戸惑い、後ろ指を指されたことも少なくなかった。

でも、バスケットと出会い、バスケットを頑張ったことで、少しずつ前向きになれたし、自分自身も社会も変えていく事ができた!と思っている(笑) そして、最後には「俺の人生最高!」と思えるようにまで至った。だからこそ、その考えと思いを奴らに伝えたいと思った。この国に障害者の存在を知らせ、何でも出来るということを証明するのは、彼らスポーツを頑張っている若者だと思う。Jは少しでもそれを伝えたいし、彼らの心に火を付けたい! 実は日頃から彼らに言い続けている事がある。それは「施設に入り浸らず、外へ出ろ!」って。それから、「仕事も金も無いと嘆いているばかりでなく、少しは自分で作ることも考えろ!」ってね(笑)確かに簡単じゃないことは分かる。この国の事情だってあるだろうし、されど途上国なのだから。ただ、諦めていたら何も変らないでしょ?

実は少しずつ嬉しい事が起こっている。まず、「日本語を教えてくれ!」と言ってきたヤツがいること。彼は将来ビジネスを始めるにあたり、日本語は必須だと考えているらしい。もちろん喜んで教えている。しかも、覚えが速く2、3度教えると言い方と意味の両方を覚えてしまう。更に、「強制はしないが時間を持て余しているならバスケをしよう!」と声を掛けたら、休みの日も選手が集まるようになった。そして、車椅子で30分も掛かるショッピングセンターに行き、店にいる多くの人に声を掛け、活動的にもなっている気がする。もちろん全員じゃないし、別の(または新たに出てきた)問題も少なくないんだけど、何も起こらないよりはましかなって思う。(笑)別に自分の考えを押し付けるつもりなんて無いけど、声を大にして伝えるくらいはいいよね?

最後に、実は日本を発つ前に行ってきた講演会の場でも話したんだけど、Jがマレーシアに行くのは正義感や奉仕の精神だけじゃないって事を書きたい。個人的な意見なんだけど、ボランティアなんて、自分に気持ち(意思)がなければする必要ないと思う。これも誰かに聞いた言葉の請負で「本当のボランティアは、“やってあげる“なんて恩着せがましい気持ちでやるもんじゃない!」ってさ。JICAのボランティアを始めて、Jも最近特にそう思うかな。だって、マレーシアの環境は良い方だと思うけど、色んな人に話しを聞くとアフリカなんて酷い生活を強いられる訳だし、多くの人が大病に掛かったり、時には死に掛けたりするんだよ。単なる正義感や偽善者意識で務まる訳が無い。

だから、きっと途上国にボラで来る人には、何か自分が来たいと思う大きな理由(ワケ)があるはず。 それは、自分の人生経験を増やしたいと思う気持ちかも知れないし、自分自身に対するチャレンジ精神かも知れない。もしかすると、“自分探し・・“なんていう、ロマンを求めてくる人もいるのかなぁ?(笑) Jは自分が感じた使命感と、その思いを伝えたかったから、気持ちは100%自分持ち。つまり、Jが来たワケは、マイポリシーである「自分らしく、自分のために、自分の人生を生きる」を貫くため。いつも単純明快(笑)
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2005年01月04日

Jキャンプin山口 〜Jキャンプを多くの人に知って欲しい!

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  Jが活動に携わっている、“車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会”が主管する、車椅子バスケットボールキャンプ(通称Jキャンプ)を、今年は山口県光市総合体育館を会場にして開催することができました。今年最後の体験記は、このJキャンプを紹介する意味も含めて書きたいと思います。


<キャンプの経緯>
 車椅子スポーツのアスリート、パラリンピック出場経験あり、アメリカ留学経験あり、この3つの共通項を持ち、当時カナダ、アメリカ、日本でそれぞれ生活していた、松江美季、神保康広、及川晋平の3人がシドニーパラリンピックで再会、日本の若い世代の障害を持った人々に、スポーツの楽しさを伝えたい、と思いを交わしたことがすべてのスタートとなった。
 アメリカでは、障害を持った人々にも様々なスポーツキャンプが開催され、ジュニアの世代から、スポーツに親しむ環境が整えられている。それをきっかけに「やってみたい」と思えるスポーツに出会い、取り組み始める子どもたちも少なくない。
 日本でトップアスリートとして活躍しながらアメリカ留学を果たした3人が、そこでの経験に刺激を受け、もっともっと、日本でも、スポーツの楽しさを伝えられはず、と一念発起、2000年のシドニーパラリンピック後、車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会を設立、多くの方の協力を得て、2001年7月、神保、及川がプレイヤーとして活躍する、車椅子バスケットボールのキャンプを日本で開催するに至った。
 (車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会の公式サイトより引用)
   

<キャンプの目的>
第3章 目的
第3条
  本会は、日本の障害者スポーツに関する非営利団体(NPO)であると共に、

1.車椅子バスケットボールというスポーツを日本の若い世代(障害の有無を問わず)に広め、その楽しさを知ってもらうこと
2.車椅子バスケットボールを取り巻く環境(日常の練習環境、選手の育成環境、社会的認識など)を整備、育成、改善していくことを目的とする。
(車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会 会則より引用)


<名前の由来>
 “Jキャンプ”とは、このキャンプで教えている(推奨している)基本シュートフォームの特徴から名づけられました。シュートを打った後のフォロースルー(伸びた腕と手首の返し)が、ローマ字の“J“を逆にしたような形になるためです。そして、Jキャンプのカリキュラムは全てに於いて、米国イリノイ大学とカナダ男子ナショナルチームのヘッドコーチであるマイク・フログリー氏が考案し、米国を中心に開催されているジュニアキャンプをお手本にしているのです。なので、2001年に第一回を開催した札幌から昨年の福島までは、イリノイ大学からマイク氏をはじめマイク氏の教えを受け継いでいる多くの講師(学生含む)を招待して開催しているのです。

 発足当時から“車椅子バスケットボールキャンプ”という言葉のみを使用していたのですが、自分達のキャンプにオリジナリティを持たせる意味や、“車椅子バスケット・・”という名前が長ったらしく言いにくいこともあって、昨年のキャンプ開催前に“Jキャンプ”という愛称をつけました。 JキャンプのHPを見てもらうと判るのだけど、トレードマークとなるロゴも作りました。これは、キャンプの協賛もしてもらっているオーエックスの設計担当、I君に頼んで作ってもらいました。
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 今まで何度か「JキャンプのJは、JさんのJですか?」って聞かれたんだけど、残念ながら違うのです(笑) でも、Jが携わるキャンプの愛称が“Jキャンプ“なんて嬉しい偶然だよね。 


<実行委員会の紹介>
 キャンプの経緯にも書いているけど、一番最初の言いだしっぺは松江、及川、神保の3人でした。 ただ3人にあったのは「スポーツの楽しさを日本に広めたい!」っていう情熱だけで、組織を立ち上げたり運営することに関しては全くの素人だった(苦笑) そして、何をやっても物事が上手く進まない3人の苦労を見てか? 次々と会に賛同してくれる強力なスタッフが加入してくれました。現在では国内外に在住する強力な運営スタッフが15人ほど活動しています。ほかにも単発的にサポートしてくれる協力会員や支援者が多数。今考えても激動の4年間だった。こんなに熱いハートを持った面々が大勢集まってくるとも想像できなかったし、こんなに素晴らしい会に成長するなんて・・・・・。 正直に言うと、実行委員会の活動が面倒くさいと感じてしまう事(時期)もあったけど、今はこの活動に関われていることを誇りに思えるよ!

 さて、前置きが大変長くなってしまったけど、今年のキャンプ報告です。 例年ならば、夏休みの時期に4日間掛けてキャンプを開催するんだけど、今年は夏にアテネパラがあった関係で12月の開催となりました。また、それに伴い海外からの講師も来日が不可能になり、今年のキャンプは開催規模を縮小して日本人スタッフのみで決行することになったのでした。


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今年の講師紹介
(メイン講師)
○ 及川晋平 NO EXCUSE所属  ‘00 シドニーパラ、’02北九州GC日本代表ほか
○ 神保康広 福岡Limitz所属    ‘00 シドニーパラ、’04アテネパラ日本代表ほか
○ 森紀之  千葉ホークス所属    ‘02北九州GC、’‘04アテネパラ日本代表ほか
○ 菅沢隆雄 NO EXCUSE所属  ‘00シドニーパラ、’04アテネパラ日本代表ほか
(補助講師)
○ 根木慎志 チームユニオン所属  ‘00シドニーパラ日本代表キャプテン

 今年は中国と四国の車椅子バスケットボール連盟に協力を頂いて、初の西日本開催となった関係でキャンパーも初参加の割合が多かった。そして、いつも思う事は「心からバスケを楽しみたい!」っていう人ばかり集まってくれた。多分それは、強制参加という形を一切取らないし、「参加費を納めてでも習いたい!」という熱い思いを持った人たちだけが集まってくれているからだと思うんだけど、そこもこのキャンプの特徴かな。だから、キャンパーは常にメモを取ったり学ぼうとする姿勢が見ていて判るし、休み時間や空き時間も講師に対して質問尽くめだったりする。そんな風に、朝から晩まで、最初から最後まで盛り上がるしバスケに集中した雰囲気も心地よいのです。夜も宿舎で何人かのキャンパーたちと語り合ったんだけど、Jは眠くて早々にベッドへ潜り込んでしまいました。年なのかなかなーー(苦笑)

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 このキャンプで自慢したい点は幾つもあるんだけど、その一つにしっかりした“指導カリキュラム”が存在していることを挙げたい。これは前にも書いたけど、マイク・フログリー氏が考案・実践している指導内容と同じなのですが、本当に基礎の基礎からしっかり理解できるように細かく教えているのです。例えば、今回Jが担当したリバンドでも、1)敵がシュートを打ったら「シュート!」と声を出して見方に伝える 2)マッチアップしている選手に対してホイールポジションをとる(ここでは省略するけどキャンプではホイールポジションの意味も説明する) 3)マッチアップの相手と接触しながらホイールポジソンをとってスクリーンアウトする 4)落ちてきたボールを取りにいく 5)ボールを取る 6)「ボール!」と、取った事を声で見方に伝えると言った具合。これらを全て判り易く説明してから、実際にドリルを行い反復練習をして身につける。そして、ゲーム形式で習った事を実践する・・・・・・といった具合に積み上げて練習をしてくので、全てのキャンパーが理解して習ったことをクリアーにできるのです。

 そして、一番誇れる点を挙げるとすれば、必ずキャンプ全体を通して「バスケ(スポーツ)って楽しい!!」と思える内容になっていること。これは、毎年参加してくれるキャンパーや協賛していただいているスポンサー企業の方々も評価してくれていることでもあるし、何より関わっているJたちスタッフが楽しいのだから間違いないと思うよ。 ではなぜか??なぜ楽しいのか?? それは、「百聞は一見にしかず」という言葉のとおり、実際このキャンプに参加してみる事が一番だろうね。 このキャンプは障害の有無に関係なく参加できるようになっているし、各チームのコーチやマネージャー等スタッフでも参加できるように、見学参加というカテゴリも設けてあるので、本当に誰でも参加できるから。ただし、「車椅子バスケットが大好きで、もっと好きになりたい人」っていう参加資格はありますよ。

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 今回のキャンプ全体としてのテーマ
1、 100%全力でプレーする
2、 学習する → 質問する
3、 チームワークを大切にする
4、 楽しむ

 18日のテーマ “好奇心”
 18日のIRCコンテスト:ドリブルノックアウト
 19日のテーマ 習った事を実践する
19日のIRCコンテスト:フリースローノックアウト

 これらの課題と目標を胸に、参加した24名キャンパー全てが、最初から最後までJキャンプを楽しんでくれたんじゃないかな?そして、それぞれのキャンパーが自分の持ち味を出しながら、バスケットを楽しんでくれたのではないかと信じたい。 このキャンプにはキャンプを通しての各賞を設けてあるんだけど、賞を与えたい素晴らしいキャンパーがたくさんいたんで選定は常に難航しました。しかし、その中で選ばれた栄えあるキャンパーを「体験記」でも紹介して、その栄誉と名前を残したいと思います!

○18日のMVP  小林幸平(九州ブロック)
    一番好奇心を持ってバスケを楽しんだ部分にスタッフ一同感動!
○ 19日のMVP 大嶋義昭(中国ブロック)
 習った事を実践し、皆にお手本となるプレーを見せてくれ! 

(キャンプ全体を通して)
○トップラーナー 山内昌幸(四国ブロック)
 キャンプを通して一番学ぶ姿勢を見せてくれたキャンパー!
○トップウォリアー 浦元美喜(九州ブロック)
 とにかく最初から最後まで一番声を出していたキャンパー!
○ベストスマイル 吉竹珠理(中国ブロック)
 初心者の健常者プレーヤーですが、常に楽しんでいる表情がステキだった!
○ ベストキャンパー 松本泰典(中国ブロック)
 健常者プレーヤー、個人スキルと自己犠牲を両立した素晴らしい選手!


 あーーー、何から何まで詳しく書きたいんだけど終わらないから、詳しくは近いうちに更新されるJキャンプ実行委員会の公式サイトで報告を読んで欲しい! プロのカメラウーマン?であるsavaが撮影してくれた、素晴らしい写真の数々と共に報告があると思うから。 まあ、一言で言えばこのキャンプには楽しいウォーミングアップあり、判り易い基礎スキルのドリルあり、協賛企業からの役立つセミナーあり、同じく協賛企業プレゼンツのコンテスト(ゲーム大会)もあり、同じく協賛企業プレゼンツのリアルトーナメントあり、バスケットファンとの熱い交流もあり、キャンプごとに仕掛けられた様々なサプライズありと盛りだくさん!! なのです。

※この「体験記」に使用している写真も全てsavaさん撮影及び提供です!


車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会(通称:Jキャンプ)のURL


 最後になりますが、キャンプ開催に際してご協力頂いたJWBFをはじめとする中・四国ブロックの皆さん、光市バスケットボール協会の小松さん、中国ブロック副会長の河本さん、お手伝いしてくれたサポーターの皆さん、山口オーシャンズのみんな、参加してくれたキャンパーのみんな、講師として大役を果たしてくれたモンリー、ガースー、ネジー、それから協賛企業各社やキャンプに携わってくれた全ての方々に対して、心からお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。本当に感謝しております。 そして、手前ミソですが、実行委員会のみんなに対して「ありがとう!」と「お疲れ様!」を言いたい。Jキャンプ最高!! 実行委員会最高!! 車椅子バスケット最高!! 来年もいくぞーーー! 待ってろ2005年!! Jは35歳!? まだまだ!


※ちょっと修正して1月3日に再掲載しました! 毎度抜けや誤記等が多くてゴメンナサイ!!



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2004年10月08日

アテネパラを終えて 〜日本代表チームに必要なもの

 まず、カナダのコーチであるマイク・フログリー氏の言葉(記事)を読んで下さい。

■“世界最強軍団”を率いる名伯楽の教え

 アテネパラリンピック最終日の最終競技となった車いすバスケットボール男子決勝。カナダは、“車いすバスケ界のジョーダン”パトリック・アンダーソンを柱に、「コート上ですべてのプレヤーがすべてのことをできる」というフログリー監督の教えどおりの全員バスケットで豪州に70-53で快勝。1次リーグから8戦全勝で、シドニーに続く連覇を達成した。

“マイク”の愛称で親しまれるフログリー監督は、日本通で知られる。来日経験は5回。米イリノイ大学の監督を務めるかたわら、2年前から世界最高峰の技術を伝えるべく、日本でキャンプを行っている。その教え子は、日本の新・大黒柱として期待される藤本怜央ら多数。勝つための極意を惜しみなく伝えてきた。

「日本チームにはもっと政府や会社、スポンサーのサポートが必要。それがあって始めてトレーニングの時間が確保できる」とフログリー監督は力説する。車いすバスケの先進地・カナダには、セミプロチームが存在し、政府からバックアップを受けている。競争の激しさが全体のレベルを底上げする。

■チーム全員が同じゴールに向かうこと

 日本男子はシドニーで9位。アテネでは8位に順位を上げたが、“4強”の壁に準決勝進出を阻まれた。フログリー監督は日本に足りないのは「経験」だという。「できるだけ大きな大会に出場すること。“大きな犬に勝つには、その犬と戦わなければならない”」。しかし、欧州や米国なら地続きで隣国と「国際試合」が組めるが、島国の日本では予算的にそれがままならないのが現状だ。

 五輪の有力選手に対して日本オリンピック委員会(JOC)が支給する強化費は一人当たり年間200万円以上にもなるが、パラリンピック選手が日本パラリンピック委員会(JPC)などから受ける金額はその十分の一に満たない。車いすバスケ男子日本代表の小川智樹ヘッドコーチは、「もっと頻繁に選手が集まって練習ができないと強化は厳しいし、体育館を確保するだけでも困難。代表チームでも合宿でコートを使用するのに6か月前から一般の体育館を予約している状況」と環境改善を訴える。

 日本をよく知るフログリー監督は、厳しい環境の中、日本は着実に前進していると評価する。「日本はいいチームになるための条件に近づいている。チームの弱点が減り、チームのためにだれもが犠牲を払える。それにチーム全員が同じ目標を分かち合っている」。目標を「ゴール」と表現したフログリー監督の言うとおり、アテネで日本は、すべての試合でベンチも一丸でゴールを目指した。その背中には、代表に選ばれなかったサブのメンバーの思いも背負っていた。

※YAHOO Japan Sports × suportsnaviの記事から抜粋して引用


 正直なところ、Jはアテネパラを終えてから、今大会での様々な出来事を通して本当に複雑な思いの中にいました。そして、「体験記」自体も書くかどうか?迷っていました。 やっぱり何を書いても「敗者の言い訳!」って、思われるに違いないからネ(苦笑) でも、マイクの記事を読んで書くことに決めました。それは、マイクの意見に対して全く同感であり、彼が日本の現状や改善案を示唆してくれた事で、J自身の考えにも自信と確信を持てたから。そして、「“そこ”が改善されれば、日本の将来は明るい!」と感じたからです。 だから、特に今回は“そこ”について書いてみたいと思います。

<予選を戦って>
 まず、予選初戦のアメリカ戦をベンチスタートでした。 ベンチからコート上で苦戦するチームメイトを応援しながら蘇ったのは、今年3月にオーストラリアで開催された、パラ予選決勝のオージー戦。 何が言いたいかと言えば、全員が浮き足立っているし自分を見失っていた。過去一度も対戦したことがない相手チームのプレヤーに戸惑っているのが見ていて分った。日本の選手は練習で養ってきた素晴らしい技術を持っているのに、それを充分に活かせていない状況だった。 そして、Jは同時に「この試合で俺の出番が絶対にやって来る!」って確信してベンチで準備してました。 確か2Q途中でコーチから声が掛かってコートへ。 でも約10分間出場も無得点、合計2本のシュートを落とした時点で交代。 自分としては、調子も悪くなかったし特に大きなミスを犯した訳でもなかったから、「まだまだこれから!」って感じだったけど、逆に目立った結果も出せてなかったから仕方ないと思った。 本当に悔しかったけど、それからは気持ちを切り替えて応援に励んだ。 でも、それ以降はコートに出ることが無いままゲームセット。 

 この試合で、Jを含め全選手が長い間国際試合から遠ざかっていたことを、改めて痛感させられたんじゃないかな。 もちろん、そんなことは大会前から分かり切っている事なんだけど、現状の日本では時間的にも経済的にも厳しい中での活動で、どうしてもクリア出来なかった課題なのです。 また、小川コーチは「国際経験の無さを悔いるより、手の内を知られず大会に望めると考えよう!」って、いつも前向きに話していました。 本当は誰だって国際経験の不足が問題だって分ってるんだよね。 でもコーチやスタッフは、そのような厳しい環境下でも前向きに最善の努力を尽くしてくれた。 また、選手だって前向きに出来ることを、一生懸命やってきたと言う自負はあったはず。

 2試合目のドイツ戦で与えられてプレータイムは1分強。そして、続くイラン戦ではついにコートに出ることはなく、本当に辛い時間だった。 4年前のシドニーパラでは、調子が悪くなっても使われ続けて辛い思いをして経験があるんだけど、今回は全く逆の状況に苦しむことになったなんてね(苦笑) でも、どっちの気持ちも体験できたことは、ある意味幸せなのかも知れない。 また、今まで頑張ってきた日本チームのメンバーが、持ち味を出しつつ必死に戦っても歯が立たない事実には圧倒された。 負けた試合は全てが気持ちよいぐらいの完敗だったように思う。 そうそう、ある晩にキャプテンの大島から「正直に言うけど、神保モチベーション下がっているよね?」って問われた。 自分としては「違う!」と思っていても、周囲にそう感じられていると知って動揺した。 また、自由時間にインターネットゾーンで、EメールやJs−Pageを開いては、応援してくれている方々の気持ちを知って、自分の中で激しい葛藤があった。 特に大会の前半は、ネガティブの“デビル”とポジティブの“エンジェル”が、常に対決してたよ(笑)  でも最終的には、「代表チームの一員として最後まで自分の役割を真っ当しよう!」って、思えるようになった。 そして、何とか全うできたんじゃないかとも思っている。


 <世界動き〜カナダ>
 90年代前半、当時カナダ代表のクラス1プレヤーだったマイク・フログリー氏(現カナダ、イリノイ大コーチ)が、車椅子バスケで優れたコーチの存在が無いことを痛感し、自身がコーチ業に転身を果たす。アメリカに渡って大学で車椅子バスケのトレーニング方法やコーチング論を次々に確立。 当時ウィスコンシン大学のコーチとして、トロイ・サックスをはじめ多くの若い選手の才能を開花させる。また、カナダからも多くの選手を留学生として受け入れ、選手の発掘や育成に力を注ぐ。 さらに、カナダは一種のスポーツ年金制度もあり、優秀な成績を残した選手に対して支給されている。ほかにもトップを目指して活動する選手に対する支援の手段があるとか。

 <世界の動き〜オーストラリア>
 96年のアトランタ大会で、それまで日本と変わらない順位を争っていたオーストラリアが、超劇的な逆転劇でアメリカやイギリスを下して優勝を飾った。 一番はトロイ・サックスという素晴らしいスターの誕生が大きい。しかし、彼は当時マイク・フログリー氏がヘッドコーチを務めるウィスコンシン大学へ留学をして、車椅子バスケを基礎から学んだ選手だった。また、オージーチームはパラの数ヶ月前からヨーロッパ遠征で、各国の強豪チームと転戦しながら国際経験を積んでいたらしい。 優勝という結果を残した背景には、それだけの裏づけもあった。 その後、オージーの選手は次々にアメリカへ留学したり、イタリアやドイツといったプロチームのある国に渡っています。

 <世界の動き〜アメリカ>
 現在のアメリカは、ヨーロッパのように純粋なプロチームは存在しないけど、小学生以下の“キッズ”カテゴリから、中学・高校の“ジュニア”カテゴリが確立されている。また、幾つもの大学には車椅子バスケチームが存在し、マイク氏をはじめとする優れた指導者の元、車椅子バスケを学ぶ環境がある。さらに、Jが学んだレイクショア財団のように障害者スポーツを、全面的に支援する団体や企業もあるし、多くのクラブチームには活動費をサポートする地元の企業などが多数ある。もちろん、ヨーロッパでプロとしてプレーしている選手も少なくない。

 <世界の動き〜ヨーロッパ>
 ヨーロッパは陸続きとなっていることが大きなメリット。ヨーロッパ選手権をはじめ、国をまたいで国際試合が容易に出来るため、どこのチームも国際経験が豊富で強豪揃い。さらに、ドイツやイタリア、スペインのチームにもプロ選手が存在するし、世界中の優れた選手をリクルートするスカウトマンの存在もあるとか。 

 <ちょっと余談>
今大会を控えた7月。 Jはアテネに向けてモチベーションを上げるため、単身でアメリカに渡りルーズベルトカップの観戦&ビデオ撮影をしてきました。その時に、各国の選手から言われた言葉です。「日本は何故参加していない?もうアテネを捨てているのか?」、「国際経験をしないで本戦に望むなんて無茶だ!」、「お気の毒に・・・」。 でも、Jは胸を張って言ったよ。「俺たちは毎月日本でキャンプを重ねて、着実に強くなっている!」って。 でも、内心ではチームでルーズベルトカップに参加できなかったことが本当に残念に思った。そして、一度も国際大会を経験しないことを、不安に感じた自分に対して言い聞かせた。 いつも小川コーチが言うように、「日本は手の内を見せず、アテネの本番でドンデン返しをする!」って。 でも、最終的に結果だけを見れば、いつもの“指定席“だった。でも、最終的な結果(勝敗)には決して現われない、素晴らしい部分もたくさんあった。 それを少しでも知ってもらえたら、イヤ、知ろうとしてもらえるだけでも嬉しい。 マイクの記事を読んだ時、その部分を評価してくれている事が分ったから凄く嬉しかったし、「やっぱり彼は世界一評価されるコーチなんだ!」って思った。

  今後、車椅子バスケの人気は障害者だけに留まらず、もっと多くの世界や人に周知される人気スポーツに成長することが想像される。そして、今よりもいっそう競技レベルが上がるに違いない。 世界での動きはプロ化やオリンピックとの統合案など、急速に発展しようとする中、日本の現状はあまりにも遅れていると言わざるを得ない。 アジアでも中国が国を挙げて応援する体制がとられようとしているし、今後日本は今のようにアジアですら勝ち続けることができるのか? マイクが言うように、日本は強いチームになる条件を少しずつクリアしながら成長していることは確か。 でも、それは選手の犠牲による部分が大きいし限界もある。 もちろん、連盟や役員・スタッフだって頑張っていることは百も承知。だけど、もっともっと大胆な環境改善や新しい道を開拓する必要があるはず。

 選手である自分が、このようなことを書くことは“甘え!”とか、逆に“誹謗・中傷“などと捉えられるかも知れない。 でも、本当にもっと経済的な支援や競技環境の整備、情報収集などが必要不可欠なのです。 これらが改善されなければ、日本が今以上に強くなることは難しい。そして、世界に追いつくことも不可能な話になってしまう。 Jは自分自身が12年間も日本代表として活動し、アメリカ留学で世界の背景を知れたからこそ、冷静に問題分析ができてると思う。 多分・・・・、選手生命が長くないであろうJにとっては、あまり関係ない話かも知れない。でも、車椅子バスケを愛する一人の選手&先輩として思う。これから全日本を背負っていく若手選手に同じ道を歩ませるのは酷だって。 今の選手が良い環境下で多くの国際経験を積んで行けば、必ず結果を出せるチームに成長すると思うからこそ、本当にこの辺で何とかしないといけないことを訴えたい。 

 アテネを終えた今この瞬間、まだ今後自分が進むべき道や自分自身に出来ることは見えてないけど、これからゆっくり考えて行こうと思います。ただ、車椅子バスケットボールキャンプ実行委員会の仕事や、福岡Limitzでの活動は続くだろうし、それらを通して若い選手の育成や底上げに、少しでも貢献でもできれば良いなーと思う。 えっ、今後の具体的なこと?? バスケは大好きだからずっと続けるさ! だけど、団体競技の楽しさ、難しさや苦しさもイヤっていうほど経験したから・・・(苦笑) 過去に参加した4度のパラは、それぞれ全てに特別な思い出がある。 そして12年という長い間、トップレベルでプレーできたことを本当幸せに思う。 

 最後に、これまで応援してくださった全ての皆さんに対して、とびきりのありがとう!を言いたい。また、今回の代表チームでは満足いくような貢献が出来なかったけど、一緒にプレーできたチームメイトや、支えて下さったスタッフにも感謝。 今回、アテネパラの“楽しい体験記“は書けなかったけど、これが今大会を通して一番強く感じたJの本当の気持ち。 その他の楽しい思い出については、機会があったら紹介させて下さい。 でも、デジカメだけはたくさん撮ってきたんで、後ほどアルバムあたりに「画で見るアテネパラ」を、更新したいと思います。 秘蔵の写真?も多数あるので、ご期待下さい!!


 追伸
 最初に掲載した体験記(10月8日掲)には、文中に事実と違う部分や不適切な表現があったと思われるため、10月12日に一部を削除・修正して再掲載しました。誠に申し訳ありません。



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2004年08月17日

移籍への道(国内編)〜福岡Limitz誕生までの出来事

 昨年福岡へ転勤で越してきたJですが・・・・。 これまでに多くの方から「チームを移籍しないの?」とか「やっぱり福岡なら足立スティーラーズ入り?」などの質問を受けてきました。 その度にJは「これからも当分は風呂屋で行くよ!」と、答え続けてきたのです。  しかし、先月末に神戸で開催された「のじぎくカップ」を最後に、とうとう森本文化風呂商会を卒業して新生“福岡Limitz”を立ち上げ、移籍したのです。 そこで、今日は移籍への道(国内編)として、チームが誕生するまでの話しを書いてみたいと思います。

 新天地の福岡で生活を始めたJは、殆どの部分で満足した生活を送っていました。九州は人も環境も良い、物価も安い、食べ物も美味い、何より渋滞が無いのが最高!!(笑) ただ一つだけ誤算だったのは、バスケをする環境でした・・・・・。 当時の本心としては、「落ち着いたら足立に入部させてもらおうかなー」と思いつつ、とりあえず様子見でチーム練習にも参加させてもらいました。 しかし、足立のチーム練習は週に1回程度。しかも、初心者や健常者の素人さんが多く参加していたので、練習メニューも“同好会“的。 もちろん、それ自体が悪いと言うつもりはないんだけど、全国制覇や日本代表復帰を目指して頑張りたいJにとって、かなり物足りない練習だったのは確かでした。

 そこで少し慌てたJは、飯塚近辺の体育館やプール等のスポーツ施設を回っては、トレーニング環境の確保を始めたのです。 すると、Jが住む飯塚市内に“サンアビリティーズ飯塚”という体育館があることを知ったのです。早速、毎週空いていた金曜日の夜を全て押さえて個人練習日にしました。最初はJと足立の若手選手の3、4人で始めてのですが、そのうち噂?を聞きつけた選手達がポツポツと集まり始め、いつの間にか7、8人の選手が来るようになりました。 しかも、練習自体は走り込み中心のキツイ内容にも関わらず、みんな続けてきてくれたし、本当に充実した練習が出来るようになっていったのです。 何だかそういう流れって、凄く嬉しかった記憶があるかな。

 ただ・・・・・、足立に入部することは考えられなかったのです。理由は上にも書いたように、練習内容やチームの気質が合わないと思ったから。 それから、もう一つ大きかったのが“伝統“。 足立は創部30年以上の歴史を持つ伝統あるチーム(過去には全国制覇を何度もしている名門!)なんだけど、伝統のあるチームって良くも悪くもそれが根付いているように思うのです。 チームの方向性や練習内容、チーム内のルールや雰囲気に関しても、目に見えない伝統が存在している。 Jはそういう伝統を背負えないと思ったし、どうせ新天地で始めるなら、何色にも染まっていない場所からのスタートを望んだのです。  ※誤解が無いように書くんだけど、別に足立と言うチームを批判している訳ではなく、自分との考えや方や方向性が違ったのです。

 そんな折、山口県の徳山市周辺を活動拠点にしている、山口オーシャンズの練習に参加する機会がありました。 以前からこのチームや数人の選手については知っていたんだけど、とても好きなチームの一つでした。 このチームは選手が6人と少なく、専任のコーチがいないにも関わらず、みんなやる気があって厳しい練習メニューをこなしているのです。そして、何より前向きで一生懸命プレーしているチームの雰囲気が良かった。 で、色々考えた末に、Jは山口オーシャンズに入部したいと思うようになり、その気持ちをメンバーに伝えました。確か今年2月頃の話だったかな? チームのみんなが快く了承してくれたこともあり、5月の日本選手権終了後に山口へ移籍する予定にしたのです。

 しかし、実際に移籍を真剣に考え始めると、様々な問題が次から次へと起こってくるのです。まず、その頃から仕事が忙しくなり、毎週参加を予定していたチーム練習には殆ど顔を出せませんでした。これは、過去に風呂屋の練習へ参加することが出来ず、苦しんだJにとっては非常に大きな問題でした。また、身近な人に山口へ移籍する意向を伝えると、「どうして九州に住んでいるのに山口なのか?」という疑問を投げかけられ、 更には仮称“飯塚ジャイアンツ“として始めていたサンアビでの自主練習も、気付けば10人近い選手が出入りする状況になっており、身近でやる気のある選手達との決別にも疑問を感じ始めたのです。 うーーーー、頭が痛い・・・・。どうしようかなーーーと、悩む日々がしばらくの間続きました。

 そして、Jが出した答えは、「山口への移籍は断念し、バリバリ頑張れるチームを福岡で立ち上げる!」でした。で、山口のメンバーには事情を説明して断りを入れ、飯塚の練習に来てくれる若手選手を中心に、新チーム結成に向けて動き始めたのです。当初の構想では初心者2名を含む5人程度でチームを立ち上げ、2、3年後に全国大会へ出場できるチームを作る計画でした。 そんなある日、足立スティーラーズのノボル君から、「今後のことで話し合いたい」と言う打診を受けたのです。 彼は「出来ればJと一緒にバスケをしたい」と言ってくれたのです。 とても嬉しかったし、できればJ自身もやる気のあるノボル君のような選手ともバスケがしたいと思いました。 また、自分自身が転勤の身と言う事で、いつまで福岡にいれるか分からないのに新チームを結成するということに対して、若干の不安もあったことから、足立スティーラーズの選手とも融合できる道を探って行くことになったのです。

 まず、足立の選手&スタッフ全員と話し合いをする場を設定してもらいました。そして、Jは3つの希望を伝えたのです。
1足立スティーラーズには入部する気が無いので、完全なる新チームを立ち上げて、全員が新規に入部(移籍)する形にしたい
2今の実力は関係なく、やる気のある選手を広く受け入れて活動していきたい
3将来は全国制覇を目指せるような強いチームを作っていきたい(そのために厳しい練習をするチームになる!)

 今になって思うのだけど、希望の1はちょっと失礼だよね?(苦笑) だって、伝統ある足立を廃部に追い込んだとしても「新チームの結成!」を訴えたんだから。  話し合いの時も、重たい内容だったし正直言って簡単なものではなかった。でも、最初が肝心と言うか、自分の目指すものがある以上、しっかりその気持ちを伝えて双方の意思確認&相互理解がなければ、結局後になって問題になったり、上手くいかなくなるケースが多いから、その辺は逃げずにはっきりさせたのです。 

 最終終的には殆どの選手が、新チーム結成に賛成してくれたことには感謝です。また、 残念ながら諸事情によってほかのチームに移籍する選手も出たんだけど、しっかり話し合った上で目指す方向性が違ったのだから、それも仕方が無い結果だと受け止めています。 それから、“足立”の名前は、北九州を拠点に活動しているOBチームの「北九州リバイバー」が継承することになり、伝統のチームは「北九州足立リバイバー」として引き継がれることになったのです。 良かった!

 そうと決まれば!!  新チーム結成に向けての準備は加速していきました。 まず、チーム名は、「福岡Limitz」に決定。 これはチームに関わる全員が最低1つのチーム名を提案し、多数決を取りながら話し合って決めました。 

「Limit(限界)に挑み、それを超越する意思を込めた、‘Limitz’(造語)なのです。from A to Z 、徹頭徹尾、最後まで諦めない、そういう意味で‘z’を付けました。」(Limitzのホームページから引用)

本来Limit(限界)という意味は、チーム名として相応しくないのでしょうが、上記のような意味を込めて決まりました。なかなか良いのではないかと思います。実は最後までJは反対派?に回っていたのですが、今ではすっかり愛着心も沸いています。 ちなみにJは、“強い絆”(STRONG BONDS)という意味を込めて「S・T Bonds」を提案したんですが、選定途中で却下されてしまいました。残念 (笑)

 ちなみに、チームカラーは白と赤に決定。Jの強い要望により、当面は普通のユニホームを作らずにリバーシブルで対応。だって、お金をかけて立派なユニホームを作っても、年に何度も着ないんだからもったいないよ! それに、立派なユニホームは、それが似合うだけの実力がついてから作った方がカッコイイ! でしょう?  しかも、リバーシなら普段のチーム練習でも重宝するからね。また、リバーシを正式なユニホームに使っているチームなんてあまり聞かないから、逆に新しい発想かなーなんて思ったり(笑) 

 現在、正式な登録選手は8名、スタッフ10名。週4日のチーム練習をこなして、少しずつだけど確実に力を付けているチームです。若手も多く、すぐに全国トップレベルのチームまで引き上げるのは難しいかもしれないけど、今の気質を維持して練習や活動に励んでいけば、きっと全国制覇も夢ではないチームになると信じています。  また、これから新しい歴史と伝統を築いていくチームの、創立メンバーとして参加できたことを嬉しく思ってます。  

  過去にJは、常勝千葉ホークスで、常に厳しい練習を重ねていくチームの雰囲気(伝統)を経験。その後、入部した弱小森本文化風呂商会(当時)では、みんなで色んな壁を乗り越えながらステップアップしてくという貴重な経験ができた。そして、今回は全く新しいチームを立ち上げて挑戦するんだけど、今までの経験を活かして、最高のチームにしていきたいと思う。 本当に楽しみで仕方ない。「福岡に福岡Limitzあり!」と言われるチームにするよ!

 最後に・・・・・、Jが福岡に越してきたことで、九州の車椅子バスケ事情が改善されたりプラスになれば嬉しいなーって思う。新チームの結成もそうだけど、全国に通用するチーム作りや練習方法の紹介、若手選手の育成にも貢献したい。そして、もっともと九州を盛り上げていきたいし、車椅子バスケ自体を盛り上げていければなーって思う。 やります! やりますとも!! いや、やってやるさ!!

 福岡Limitz公式サイトです(まだ準備中みたいですが・・)
    URL http://fklimitz.fc2web.com/index.htm

 それでは、福岡Limitzをよろしく!!
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2004年08月07日

2004ルーズベルト観戦記 〜超刺激的な世界を堪能!

 それは、J得意の“思いつき”から始まった。

 「あーー、そろそろアメリカに戻りたい!」なんて思っていた5月の下旬。日本男子チームのルーズベルトカップ不参加が決まりました。そして、アテネの本戦までは海外遠征が無くなったこの瞬間、「ルーズを観戦しにアメリカへ行こう!」と決めたのです。 でも、やっぱり勇気はいったな。 一応、仕事上では支店長という肩書きを持っているし、日頃から大会等で留守がちなんで、長期休暇を取ることに対する負い目が無いと言えば嘘になる。 ただ、こういうことって自分自身で決めて進めない限り何も始まらないから。しかも、最近全く“チャレンジャー”をしていなかったので、ここは思い切って決断したのです。

福岡から関空、デトロイトを経由してアトランタ到着までに要した時間は約19時間!本当にキツかった。 大好きなアメリカに戻るためとは言え、エコノミーで身体を丸めて我慢するには長すぎる移動時間でした。でもねー、デトロイトに着いたときに思ったよ。「あー、この匂いだ! アメリカの匂いがする!!って。そして「とうとう戻ってきた!」って思いながら興奮状態だった(笑)

アトランタでレンターカーオフィスに行って思い出したこと。日本で事前に会場の住所を確認していなかったのです。以前アラバマに住んでいた時は、何度か自分の車でも行っているのですが、すでに忘れてしまって行き方が分からない。 ホント結構間抜けな話なんだけど、そんな大らか?な自分にも驚いてみたり(笑) とりあえず、バッグの中を探ってみたらJWBFの事務局から頂いた、スケジュール表を発見。そこの大会事務局の電話番号があったので、早速電話をして詳しい情報をGETしたのでした。 最近「俺って本当にA型なの?」と、思うことがある。年喰ってか?アメリカ留学を経験してか?? かなり大らか(ズボラ?)になった気がするよ(苦笑)

アトランタから車を走らせること1時間半、とりあえず会場近くのホテルにチェックインすると、アメリカ代表チームが宿泊していることを知らされました。この時、Jは1度目の驚きを目の当たりにしました。「うそーー、アメリカ代表はキッズの集団だ! これってジュニアの代表チームじゃん!?」と。 うわさ通りアメリカチームは大幅な選手の入れ替えをしていたのです。理由はどうであれ、アメリカは思い切った若手の起用を試みたのです。

まずここで全日程と結果を掲載

 2004 Roosevelt World Basketball Challenge
  Men’s Schedule
<予選リーグ>
July 7, 2004
08:00Germany vs. Great Britain70−75
10:30Australia vs. Turkey96−48
13:00USA vs. Great Britain61−78
15:30Canada vs. Turkey86−38
18:00Australia vs. Germany86−81 ダブルオーバータイム
20:30USA vs. Canada52−103
July 8, 2004
08:00Turkey vs. Great Britain52−83
10:30USA vs. Germany57−59
13:00Canada vs. Great Britain74−46
15:30USA vs. Turkey77−43
18:00Canada vs. Australia61−49
July 9, 2004
08:00Germany vs. Turkey71−47
10:30Australia vs. Great Britain64−48
13:00Canada vs. Germany79−54
15:30USA vs. Australia63−76
   
<決勝トーナメント>
18:00USA vs. Turkey84−48
20:30Germany vs. Great Britain75−70
July 10, 2004
08:00Canada vs. USA69−50
10:30Australia vs. Germany70−58
   
<決勝>
15:30Canada vs. Australia61−67
  1位 Australia
   2位 Canada
    3位 Germany
     4位 USA
      5位 Great Britain
       6位 Turkey


この中で印象的だった試合を幾つかあげると、まず初日のアメリカVSカナダ戦。スコアは52−103でカナダが圧勝しているのだけど、本当にアメリカの悪さとカナダの良さが対照的に現れている試合だった。今回のアメリカ代表選手は、パラ経験者がたった2人。また、国際経験のある選手で見ても全部で4人程度。そして、選手の多くは大学に在学中の若手ばかり。更に高さで言えば、確実にJより高い選手は一人もいないのです。試合はカナダの選手にすき放題やられ、遊ばれるような展開で全く相手になっていない状態でした。特に、高さで劣るセンター陣はゴール下でシュートを打つことが殆どできず、苦し紛れのミドルを打たされては逆速攻を奪われるという、最悪の展開が最後まで続きました。また、J同様今回で4度目のパラ出場を果たす、超一流シューターのトゥルーパー・ジョンソン選手はプレータイムを貰えずベンチを暖める始末。 また、トゥルーパーがコートに出ても、センター陣が弱いため彼に対してカナダは積極的にジャンプアップ。結局プレッシャーが厳しく、殆どシュートを打たせて貰えない。見ていても手の施しようがない展開でした。

そして、2度目の対戦となる決勝トーナメントでの同じカード。この試合は50−69と、スコア的にはアメリカチームも善戦した感じ? 基本的にはオールコートプレスを引いて、積極的に攻めのディフェンスを仕掛けてきた部分が初戦と違うところ。特にポイントゲッターのパトリック・アンダーソンやジョーイ・ジョンソンに対しては厳しいチェック。パットは何度も転ばされて痛々しい感すらあった。正直言って“厳しい“を通り越して、かなり汚いプレーも多かった。しかも、アメリカのコーチ陣は更に選手を煽るような声掛けをしていていたし、試合を見ていて気持ちの良いものではなかった。 少なくても2年前の北九州ゴールドカップで優賞した、あの強いアメリカの姿では無かったです。カナダのコーチであるマイク氏もベンチで首をかしげ、時折かなり険しい表情を見せていました。 ただ・・・・、アメリカの選手は一試合ごとに成長しているようにも感じられたのは確か。 特にスピードやスタミナに関してはトップクラスなので、彼らが経験を積んでくると怖い存在になることは間違いないと思う。

そして決勝戦 あの試合は凄かった!!

前半からオーストラリアはボールマンやパットに対して厳しいディフェンスを仕掛けていく。しかも、ゴール下のシュートはファールを犯してでも打たせないという徹底ぶり。しかし、その結果オージーのエース、トロイがファールトラブルに見舞われ、早々とベンチへ下がる羽目に・・・。 ここで2番手3番手のクラス4.5選手、ブラッドとジャスティンが素晴らしいプレーを連発! ジャスティンが早い動きからゴール下に滑り込んで得点を上げれば、ブラッドはミドルレンジからのシュートを高確率で決めてくる。ディフェンスもファールを恐れない激しいチェックでカナダの選手を苦しめました。第3ウォーター以降のカナダは、パット以外の選手がとても疲れている感じを受けた。後半はシュートミスも目立ったし、ディフェンスでもオージーのセンター陣を容易にペイント内へ入れさせる場面が目立った。 結局4クォーターでトロイが戻ったオージーは、カナダの反撃を振り切って優勝したのです。



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優勝したオーストラリアチームに敬意を表して(優勝直後の記念撮影より)




ただし、カナダを弁護したい部分として、ヘッドコーチのマイク氏が用事のため一足先に帰ってしまい、決勝戦では采配を揮えなかったことは大きなマイナス要因。また、王者カナダゆえ、予選から各国チームの厳しいディフェンスを強いられたカナダの選手は、怪我人も続出していたし、そうとうな疲労も出ていたはず。今回は負けたものの、実力的にはカナダの方が上であることに変わりないと思います。まあ、一つ言えることとして、あの決勝戦はどこを取ってみても「世界最高峰の戦いだった」と言うこと。

最後に、今回のルーズベルトカップを観戦できたことは、アテネパラを控えるJにとって、日々のトレーニングを休んで見に行ったけど価値のあるものだった。最高に刺激的だったし、こんな奴らとバスケが出来ると思うだけで、アテネの本戦が待ち遠しくて仕方ない。世界のバスケは見るたびにレベルアップしている。その代表的なスタイルがプレスディフェンス。国際ではロングシュートを含め、得点能力が非常に上がっているため、ゾーンディフェンスでは不十分。得点力のある選手には徹底したプレスをかけるディフェンスのスタイルは、まさに国際のレベルアップを象徴する現象だと思うのです。 今回も思い知らされた、「世界は猛スピードで成長と進化を遂げている!」という事実。日本にとっては厳しい現実なんだけど、目指すところのレベルが上がれば、日本のレベルも上がるチャンスだと思って、これからも学ぶ気持ちを忘れずに精進していこうと誓いました。


おまけ
お宝の画像を三つ。左はパトリック・アンダーソン選手の義足姿。かなり前にも紹介したことがあるんだけど、その時は長ズボンをはいておりました。今回は義足丸出しのパットをカメラに収めさせて貰いました。立っているパットも大きかった! そして、中央が本家?“WAL MART”の外観です。 時折Jが「独り言」に書いている、“TRIAL”という安売りのお店が、このWAL MARTをマネて作られたそうなのです。 やっぱり本家の方が大きくて品揃えも良かった! そして、右の画像は今回の旅行で唯一Jが写っているショット。 毎日同じ場所でビデオを撮影していたアメリカ人のおじさんが撮ってくれたもの。Jにとってはお宝画像なんだけど、ほかの人にとっては???だよねー!(笑)


35-5.jpg
パット


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WAL MART


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J
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